「高知地区教区民のつどい」溝部脩司教様基調講話
2006年10月29日
於:江ノ口教会
<司教着座に至る経緯、前司教の裁判>
皆さんの話して欲しいという要求を貰いまして、諸刃の剣を咽喉もとに突きつけられたな、という印象があります。答えられるところと答えられないところ、個人的な問題に触れること、ということは避けたいなと思います。それから私は矢張り司教ですので、牧者としての役目があり、誰かを傷つけたり、矢鱈に非難したりすることはしたくない、ということだけは前置きとして話さしてください。一つ一つについてというよりは、これを踏まえた上で話しをさしてください。そして後、質問があったら、お答えいたします。
<高松教区の問題点>
先程代表の方から、私は2年3ヶ月ということですけど、先ず何故私がここに来たのかという話からさせてください。決して深堀司教さんが居なくなったから来たのではありません。今日は裏のことも話が出来るかなと思います。司教の定年退職、定年というのは75歳です。深堀司教さんは6年間延長していました。次の司教が見つからないということもありました。見つからない理由は、この教区の中でいろいろな問題があったということです。特に國際神学院の設立に関して、法的に無理であった、或いは宗教法人法に則っていなかった、ということを理由に、司教が民事法の裁判にかけられたという事実があります。実際司教さんは、裁判では負けるということになってしまいました。日本の教会の中で色んなことがありますが、信者さんが司教さんを裁判で、教会裁判ではなくて、民事法の市民裁判にかけるということは、前代未聞のことです。そういう事情の中にあるこの高松教区を考えて、ローマの教皇様は後継者をどういう風に探すか、即ち裁判にまで至ったこの教区の現状を見るにつけ、どのような人をつけるのかが一番の問題でした。その時私は仙台の司教でした。仙台の司教のときにも、司教会議に出るたび毎に高松教区の問題は話されていました。高松教区をどうするかというのが司教たちにとって一番大きな問題でした。今もそうです。司教の集まりで何時も問題になったのは、高松教区のことでした。
<新求道共同体の道と神学院>
その問題の中心は、所謂「新求道共同体の道」ということと、それから神学院の設立と、この二つに絞られておりました。私は仙台にあって問題は聞いて知っておりましたが、当事者としてはそんなに痛みを感じたわけでもありませんし、そういうこともあるかと、この位の気持ちでいました。司教団の中で激しく議論が交わされるのを何度も聞いておりました。でも私の居る所から随分遠い問題のように感じておりました。それでも、話し合っているうちに、新しい新任の司教はこの教区の問題を解決するのは難しいと感じていました。司教の任務とか、司教がしなければいけない仕事が何か、というのを知っている人が必要であると、皆が考えていました。司教に任命されて、教区のこととか、司教の役割とかいうのを分かるには、少なくとも2年か3年はかかります。高松教区の場合はそんなに永く待てないと考えていました。こうして、高松教区には先ず特別視察を、というのがローマからなされた結論でした。
<バチカンからの特別視察派遣>
第一番目の視察は、金枢機卿、韓国の金枢機卿がローマからの視察官として高松教区にやって来ました。全ての司祭、信者の代表との面談をするために、一ヶ月間位泊まり、その結果をローマに報告書として提出しました。次いで、神学院の問題がありますので、バチカン教育省からピタウ大司教が見えられ、高松教区の視察を行い、同様に報告書をローマに送っております。何れも私は読みました。問題はローマとかかわった高松教区ということで、問題が今複雑になってきています。金枢機卿もこの高松教区には現役の司教を送るほうが一番いい、という結論になったようです。それは私の方にも知らされましたし、私たち司教は皆このことを知っていました。結局は誰を送るかということでして、私は自分が送られるとは夢にも考えていなかったので、誰かが行くんだろうなと、この位に思っていました。
<高松教区への派遣決定経過>
司教会議があって、夜一人で談話室に居ましたら、司教団の会長の野村司教さんが入ってきて、「テルナが来た」と話しました。テルナというのは3人の候補者のリストのことで、3人の候補者について自分の意見を書いて、それをバチカンに送る仕組みです。バチカンは最終的にそれを見ながら結論を出します。3人の名前を書く、即ちテルナが私の手許には2人しかきませんでした。1人足りませんでした。おかしいなと私は思ったので、「私には2人しか来なかった」と言ったところ、それで黙ってしまいました。それからあと、岡田大司教さんが入ってきてまた、何時もの通り高松教区の問題が話題にあがり、「テルナが来た」と言いました。これはおかしいと私は思い、岡田大司教さんに「私のところには2人しか来ていない」と言うと、岡田大司教さんも黙ってしまいました。これで私の名前が挙がっていると、その時に予感しました。当時私は、カトリック学校教育委員会の委員長でして、東京で総会が開かれました。総会終了後委員会の人と一緒に食事をとっていると、ケイタイに電話が5分おき位に入ってきました。非常に数が多いこともあり、取ったら、「ローマ教皇庁の大使館です。お待ちください」という電話でした。その時の大使は、アメリカ人のデパウリ大司教でした。彼が電話に出て、「ハロー溝部司教ですか」「私は溝部司教です」「話したいことがある、今車を回すから直ぐバチカン大使館に来てください」という内容でした。間もなくバチカンの旗がついた黒塗りの車がホテルに着き、大使館に連れて行かれました。着いた途端見せられた書類が「私は貴方を高松教区の司教に任命する。ヨハネパウロU世」というものでした。何の相談も無く、それだけでした。それからバチカン大使は「あなたは2日間か、3日間大使館に泊まって、高松教区についての書類を全部読んで、今までの高松教区の実情を勉強して欲しい」と言われました。一旦私は仙台に帰りまして、どうしようかなと迷いましたが、誰にも言わないわけにはいかないので、深堀司教さんに先ず、「こういうことを言われた」と伝えました。深堀司教さんもご存じでなく、「今週にでも発表して欲しい」と言われました。私は「それでは困るから一寸待って欲しい」と言いました。教皇大使は「5日後に発表する」と言ってきました。5月5日に当っていて、仙台では司祭叙階式のある日でした。「新司祭誕生の日に、司教が居なくなるという発表があるのは、余り好ましくないので、2週間待って欲しい」とお願いしました。5月12日まで発表を待ってもらって、その間に総代理と事務局長には、こういう事情が起きて、仙台を去って高松に行かないといけないと告げました。バチカン大使館には3日間泊り込んで、金枢機卿・ピタウ大司教の報告書、それからローマから来ている文書も全部読み終えました。全貌が分かったとは言えませんが、矢張り大変な所に行かされるのだとは分かりました。私が何故選ばれたかの理由も、全部書かれていました。「年長者である、余り若い人ではいけない、現役の司教であること、ある程度ローマと繋がりが出来て言葉が分かる人、それから忍耐強い人」など、色々書かれていました。「そういうのが該当する人を調べた結果、貴方しか居なかった」と、褒められたのか何だか分からない、説明を受けました。5月14日に任命書が来て「2ヶ月以内に仙台教区の整理をして、高松教区には7月14日に入って下さい」という細かい命令が来ました。それから私は2ヶ月で仙台教区を整理し、もう一回全教区を駆け足で廻り、お別れをして、必要な書類を全部整理して7月14日に高松に入って参りました。
<高松教区の深い傷>
以上のことから、いたずらに、司教が代わった位の意味ではないことがお分かりでしょう。私が高松教区に来たのは、高松教区の中にある問題を解決しなければいけないからだったのです。「新求道共同体の道」が入ってきて、ローマと繋がる神学院の設立、司教の裁判といった一連の出来事が、それが解決出来ないまま残っていました。そのことのために「教区が分裂しているので、この教区に一致をもたらすため、一致を再構築するため、貴方を遣わします」と、バチカン大使から口頭で告げられました。これが、私が高松教区に送られた最大の理由です。信者の皆さんはそんなことは分からずに、「新司教が来た」位な感覚だっただろうと思います。でも私にとっては、仙台に4年居て、どうにか自分のペースで動き始めていたので、高松に行って何ができるか不安でした。高松に来てはや2年になります。あと3年で私は75歳です。任命された時、この5年間で何ができるかと、自問自答しました。傷つけられたり、傷つけたりすることがあって、司祭たちの間でも、信者さんたちの間でも、不協和音があることを知ったからです。遠くに居てそういうことは余り感じてないでしょうが、香川県とかは、非常に深い溝があり、今でも一致して行くことはなかなか難しい状況です。そういう中で如何に再構築していくかということは、そんなに簡単ではありません。人の心というのは、そんなに簡単に癒されたり、作り変えられたりはしません。ましてや、トップが代わったから直ぐに全てが良くなるとは言えません。トップが代わったから今までの方針を全部切って捨てるということは出来ない。企業だってそういうことはしない。ましてや教会では。そういう中でどうすればいいんでしょうか。私の一番大きな問いかけです。
<高松教区に必要な処方>
"3年後にはこの教区をどのように"と書かれていますけど、私には分かりません。3年後と言うより、この一年一年を必死に生きてゆくことしか、私には出来ないということです。兎に角何かを見つけて何かをやれと言われても、なかなか難しい。そういう中でも、一致への歩みということでは、これしかない、と思っているのが協力宣教司牧だと思います。司祭と修道者と信徒が一つになって歩む体制、と申しましょうか、司祭にべったりということではなしに、信徒だけが歩むということでもない、一緒に考えていこうという体制です。教区報にも書きましたけれど、知恵を出し合って考えていこう、という体制のことです。この体制の中で、自らが考えていくということをしていかないといけません。召命が無く、人が居ないので、昔と同じように、長崎から司祭を貰えばいいとか、外国から来て貰えばいいとかいう、人からやって貰う体質を変えていく必要があるのです。自らが、自らの教区を、自らの教会を考える、そういう体質に変わっていくことです。そういう中から司祭が生まれます。この司祭は本物で、自分たちの中から生まれた司祭といえます。今必要なのは宣教型の教会だと思います。司牧型だと、教会の内のことばかり考えていて、社会の中へ入っていくことを考えません。知恵を出し合ってどうすれば宣教出来るかを考えるのが、協力宣教司牧です。例えば、松山地区の協力宣教司牧では、クリスマスを市民と一緒に、ということを目標にして、カタリナ高校の講堂を借りて、3つの教会が協力して、クリスマスイヴのミサを行うと決定しました。カタリナと愛光学園の父母、現役の学生たちも招いて、聖歌とか、バンドとか、彼らにも役割を持たした上で参加してもらう。ミサ後余興を考えるのも協力して行う。これを通して、カトリックということを松山市内にアピールして見ようという試みなのです。高松では、宗教者の集まりを、八月の終わりに持ちました。カトリックの私が委員長になりまして、仏教関係、キリスト教関係、神道関係の人たちが3百人集まり、平和についてシンポジウムを開きました。その時カトリック教会への信頼が断然あついということを理解しました。映画「アンジェラスの鐘」上映を、高知市が行うそうですが、高松ではカトリック教会がその母体となって市民に呼びかけて、グループを作って協力して映画会を催しました。協力体制はここまで来ています。ただ神父さんが日曜日に代われば協力宣教司牧があるっていうのじゃなく、どのように知恵を出し合ってどういう風にすればいいかを考えるのです。方向性を一緒に考えていけば、今まであった派閥とか、しがらみを乗り越えて一つの方向に向かっていくのです。
<必要なのは協力宣教司牧>
つまり受身の教会から、小さくてもいい、知恵を出し合っていろんな試みをしてみる、これが協力宣教司牧だと思うのです。私は協力宣教司牧をどうしてもやってもらいたいと思っています。これに向かって歩んでもらいたい。これこそが、今までの拘りを捨てさせる一番大きな原因となります。一緒にやっていく中で全てをはっきりさせる、こそこそと秘密裏に行わない、全てはっきりしていることが大事です。ある目的に向かって皆が決心して歩む、これを協力宣教司牧と申します。その意味で高知地区は頑張っています。少しずつ意識の変革をしていかなければなりません。協力宣教ですから、人がしていることを助ける、一緒にやる、こういう姿勢が大切です。切る・やらせる・捨てるという姿勢とは違うのです。自分が出来ることは何であるかを分かって手伝うことを考える、ここから何かが始まります。
<歩んできた2年間の足跡>
では今までの、この2年間にやってきたことを報告しましょう。仙台教区では、組織的にものを考える東北人ということもあって、教区組織についても経済に関しても、会計報告に関しても、きっとした処し方を打ち出していました。東北人の特徴があるところから高松教区に来て、最初に感じましたのは、ことがルーズだということでした。いい意味では融通が利く、悪い意味では法に則っていない。どちらにしても、組織の面であまりきちっとしていないという印象がありました。着任して間もなく急に、事務局長が川で溺れて死んでしまって、誰も代わりが居ませんでした。日本で事務局長に外国人をつけるのはなかなか難しい。宗教法人法も知らないといけないし、会計についても知らないといけない、ということもありまして、誰を任命してよいのか、仕方なしに私がそれを受けました。事務局長をやりながら会計の方にも手を伸ばして、Aさんの力を借りながらどうにか一年目を乗り越えました。
<教区財政の問題>
教会法に則ったやり方をすることが私の最初の目標でした。きちっとした報告を教区にしないといけないこと、「新求道共同体の道」が入ってきて、その裁判が行われていた時点から、いろんな小教区は、教区本部にお金をきちっと送らなくなったこと、教区本部の財政そのものが非常に危うくなっていること、などを理解するようになりました。教区の財政は、長崎から来た教区の司祭たちが貰ってくるミサとか、或いは深堀司教さんが、寄付する金で補填していたということが分かりました。「新求道共同体の道」の司祭たちも含めて、給与を司教が払わないといけません。その給与をどういう風に捻出するかということも困難です。これら全部を含めたら、教区本部の運営は非常に大変で、何とかしないといけないと感じました。従って半分以上私は会計の方にも首を突っ込み、次の年の予算・決算についても口出しをしました。日本の16の司教区で、事務局長もし、会計もする司教は恐らくどこにも居ないと思います。
<バチカン教皇大使の後押しと、他教区の支援>
教皇大使は私にこういう勧めをくれました。「貴方は一人で高松教区に行ってはいけない、一人で孤独に取り残されたら、にっちもさっちもいかなくなりますよ。だから、貴方の信頼している人を5人連れて行きなさい。この人が欲しいと言えば、私がその人の司教に、直接交渉して来るようにさせます」と、ここまで言ってくれました。私は「今どうしても事務局長と会計が欲しい」と言いました。そしたら、教皇大使そのものが、長崎教区の高見大司教さんに電話しまして、「この人を高松教区に送ってください」と、頼んでくれました。サレジオ会にも電話してくれて、「この人を高松教区に送ってあげてください」と、半分命令で伝えてくれました。その間に、諏訪神父さんが神戸の仕事を終わって、サバティカルに入っていました。池長大司教さんは「高松教区がこれだけ苦労しているときに、大阪教区も何かしたい」ということで、諏訪神父さんを送ってくれるという結果になりました。私の昔からの親友で40年間一緒に働いた、村上神父に「高松に来ないか」と言ったら、「僕の人生の最後を一緒に討ち死にするか」と言って来てくれました。今は、今治教会で働いています。
<教区事務局機能の充実に取り組む>
今2年目に入って、事務局はうまく機能していると思います。小教区の分担金も全額入るようになりました。最初の年の2倍は入っています。本部事務局に対して信頼が戻ってきている証拠だと思います。と言っても、経済的に全てうまくいっているとは思いませんが、よい方向に向かっていることだけは確かです。教区会計についても、勘定科目も整理したし、小教区から教区への報告の書式も決定するところまで来ています。私が仙台教区に居たというのは、本部機能に関しては大きな知恵になっています。大阪大司教区は非常に好意的でして、徹底して高松教区を助けるという姿勢を、大司教さん始め皆が見せております。会計に関しては、大阪大司教区と提携しながらいく、というところまで来ております。決して高松教区を乗っ取るとかいうことではなくて、自分たちが助けられることを提供してくれています。見事な兄弟愛と言っていいと思います。大阪大司教区には感謝したい。同じように、長崎教区も、人を送るだけじゃなくて、お金も送ってくれます。長崎教区からの援助がないと、今のところは活動できないというのが高松教区の実情です。教区運営には、教会法に則って教区を運営する務めがあります。
<教区体制の正常化に向けて>
教会法に則った司祭評議会、教会法に則った信徒の評議会が必要でした。信徒使徒職協議会という形はあるにしても、教会法が求めている司教の諮問機関としての宣教司牧評議会が、高松教区にはありませんでした。司教が、ある事柄については質問して、必ずその意見を聴取しないといけないのです。例えば、神学院設立のような大きな変革とか、協力宣教司牧の場合は、どうしても諮問しないといけないのです。司祭評議会と、それから信徒の宣教司牧評議会が今やっと出来たことは、とても素晴らしいことです。司教が諮問できる組織が出来たことは大きな一歩です。裁判が起こった頃に、これがあったらなと、悔やまれます。信徒たちの意見がバラバラで、良い協力が教区の中で出来なかったことです。今からは、大きな出来事に関しては必ず、司教は二つの機関に相談しないといけない。これは教会の知恵なのです。高松教区では、教会法に則った組織作りを、少し疎かにしたことで問題が起きました。それからもう一つのことは、オームの事件後、宗教法人法が厳しくなってきていることです。物的管理、財政その他のことについて日本政府は、宗教法人に要求を厳しくしています。要求が厳しくなっていることに関しては、高松教区は余り理解していなかったような気がします。今までしてきたように出来る、という安心感から来ていたのでしょう。経済問題評議会を機能させて、教区の経営的な、財政的な運営もしていかないといけないのです。日本の国にあっては、宗教法人法を守るということが、最低のルールなのです。
<高松教区に欠けていたもの>
宗教法人として存在するためには、きちんと責任役員会が開かれ、その議事録が作成される必要があります。物的には、規則の変更の場合は、公示の義務があります。設立のような時には文句があるなら、訴える期間が与えられるのです。代表責任は変更について、署名の付いている議事録を、説明する務めもあります。残念ですが、高松教区の神学院設立に関しては、そういう法的な過程をきちんと採らなかったということが、災いの原因となりました。あまり気にしなかったというのが実情です。それが裁判の大きな争点となってしまいました。こういうことを考える時、宗教法人法に則った本部事務局の機能をきちんとさせることから、教区の再生を図ることが大切だと思います。
<軌道に乗せた処方>
私が着任して2年経って、ある程度このことは達成しています。 2年目になって行われていることは、教区の本部機能を強化することです。それは委員会を活性化することです。いろんな委員会を設置することで、教区が目指す方向に向かうことが出来ます。幸いに、仙台で体験したことが、私には大きな知恵になりました。2年目になり、典礼委員会、青少年司牧、宣教司牧委員会、それから広報委員会を立ち上げ、今年から生涯養成委員会が立ち上がりました。今立ち上げようとしているのが、「人権を考える委員会」と「諸宗教対話委員会」です。一つ一つゆっくりと、何かを仕上げていく中に、何かが生まれてきます。"3年以内に司教は何をするのか、高松教区の再生は出来るでしょうか、"という問題提起がなされています。私には分かりません。教区本部の機能が完成するのと平行して、今から手掛けないといけないのは、各県の評議会です。県単位の必要に、どのように応えていくのか、については、協力宣教司牧をどういう風にフォローできるか、これが私の今からの大きな課題です。最初に申しましたが、協力宣教司牧は一緒に知恵を出し合って、計画を一緒に練って実行する方法です。どの神父がどこでミサを行っているか、どんな集会を信者が行っているかを、皆が知っているのです。思いつきでやってはいけない。この教会でこの時間に、誰が何をしているか、ということを皆の目の前ではっきりさせています。こそこそと、秘密裏に何かをするのは好ましくありません。はっきりとした目標と、行事計画の中で、自分たちが協力出来ることを行っていくのです。信徒と修道者、司祭の代表が集まって大きな目標を立てて、その実現に協力していくのです。例えばクリスマスを一緒にやるとか、聖週間の木曜日とか合同で堅信式をするとかを決めていきます。
<高松教区司教として執るべき方向性>
3年以内に再生できるかどうか、私には分かりません。一つだけ言いたいのは、矢張り"晩節を汚して、定年過ぎてもずるずると司教をやるつもりは毛頭無い"ことです。それは良くないことです。やはり自分に与えられたその時を一生懸命やって、そして次の人に譲るのが、本当の仕事というものです。そこで、司祭召命の減少と、高齢化ということが最大の課題です。聖体奉仕者を考えて欲しいと言われていますが、これは今後考えていきたい。協力宣教司牧でその提案を出してもらいたい。
<終身助祭の誕生>
耳に珍しいかもしれませんが、高松教区には終身助祭第一号が、来年誕生する予定です。神父さんではありません。結婚している男性の一人ですが、彼を助祭に叙階する予定にしております。司祭が居なければ、何処からか連れてくるのではなくて、知恵を出し合って、どのようにすれば私たちの中から、何かが出来るという考え方から、これは出ています。一番私が怖いのは、司祭が居ないから、今まで通り教会を守るために、他所から人を連れてくるという考え方です。これは一番災いする考えです。居なければ、何らかの形で考えていけばよいのです。自分たちの中から何とかして出すような共同体を作ればよいのです。真に深い信仰に目覚めている共同体から生まれてきます。熱心な司祭は、共同体を一生懸命作ります。上に立ってる人が差別して、分離して、切って捨てていくことをしてはいけません。熱心な共同体から立派な次の指導者が生まれてきます。
<召命ということ>
それでも、召命という問題については是非とも考えないといけません。今、青少年の運動を盛んにしようということで、年間行事を少しずつ盛り上げていこうとしています。Br八木が委員長で、いい仕事をやってくれていると思います。忍耐が要りますが、兎に角若者が来る教会を、どのようにして作るかは宣教司牧、協力宣教司牧の大きな課題です。先日、松山のドミニコ会の神父さんたちが来て「僕たちは頑張ります。松山地区の教会では、若者への宣教というのを、今年の目標に入れて、そしてスタッフを揃えて行事役割を考えていきます」と宣言しました。凄いな、素晴らしいなと思いましたね。「私たちは、司教さんの意向に沿って、どうしても若者を育てるという方向でやっていく」という決意をしていました。非常に嬉しい話し合いでした。仙台にいる時も私は、青年たちを育てることに、全力投球をしました。「トロントの世界青年のつどい」それから「ケルンの世界青年のつどい」と、青年たちは確実に育っています。その育った中から、神学校に行きたいと言ってきている青年がいます。ゆっくりと、でも休むことなく、若者に開かれている教会作り、教区作りを考える必要があります。そのために何が出来るか考えて欲しいなと思います。仙台に居た時に、教員免許を取ろうとしている大学生と一緒に、「宗教教師の会」というのを作りました。「日本のカテキズムをテキストにして勉強会を開く会を作りました。また、月に一回「黙想を考えるチーム」というのを作って、年に6回、2ヶ月に一回ずつ黙想を企画しました。私が居なくなっても、今も続けて実施しています。この中から新しい召命が生まれてくると信じています。残念ですけど、鈍いのは神父さんたちで、なかなか青年の動いているのが分らないんですね。青年は何もしないと嘆くのです。実際は大きな形で動いているというのに気付かない。その鈍さというのが命取りになる可能性がある、ということですね。信者さんの皆さんには、若い人が動いていることを分ってもらいたい。或いは自分の家族に声をかける、ということをして頂きたい。行事を、声をかけて一緒にやることをして下さい。それだけでいいんです。ここから何かが生まれる可能性があります。声をかけるというのは大事なことなのです。
<召命と教区司祭の現状>
高松では生涯養成ということで、いろんなコースが生まれてきています。司教館を兎も角がらーんとさせない、人で埋まるような司教館にしたいと考えています。多くの場合信者さんは、自分一人で来て一緒に誰かを連れてくるというようなことが無い。召命の緊急性は確かです。でも今私たちは、これについてどう考えたらいいのでしょうか。司祭の平均年齢は随分高い。その時誰か来てくれると考えるのがいいのか、または今、何か自分たちで考えなくてはいけないのかと、考えるのか。ドミニコ会・オブレート会・スペイン外国宣教会の司祭たちも、あと10年経ったときには、どうなっているのでしょうか。高松教区の日本人の司祭は「新求道共同体の道」の神父さんを除いて、4人居ます。その他の司祭は皆3年契約で来ていただいている人達で、将来は夫々自分の教区または修道会に帰っていきます。又4人のうち3人の、岩永神父、池田神父、下田神父は80歳を超えていて、引退してもらっています。松永神父一人が残りますが、彼ももう64〜65歳になりますか。30年間以上司祭叙階は高松教区にありません。どうするのでしょう。
<国際神学院・その出身者による教区運営の是非>
そういう意味では、日本人の司祭が居ないので、国際神学院出身の司祭に教区を全て任せてよいと考えますか。それは又大きな問題を残すことになります。ある小教区は「新求道共同体の道」の司祭は受けないと意思表示をして問題を醸しました。そこから小豆島教会でいろんな問題が起きてしまいました。そこに(新求道)共同体の司祭を送るのは難しい。同様に、(新求道)共同体の司祭を受けない小教区が他にもあります。そういうことを考えると、今からどうすればよいのか、考えてしまいます。
<東京教区の試み>
日本の教会はいろんな試みをしております。東京教区では、来年8人神学校に入るということです。私は先週、東京教区の司祭たちの研修会に呼ばれて行ったのですが、夜、お酒を飲みながら多くの司祭たちと話し合いました。「司教さんね、私たちは恵まれています。来年は8人神学校に行くし、毎年2人か3人司祭叙階がある。その80%は地方から来た青年が、東京の大学に入って、そして東京教区に入る。だから、何らかの形で地方に返さないといけないと思っている」埼玉教区では20年間位司祭叙階が無かった。でも、岡田大司教、谷司教も一生懸命頑張った結果、青年活動を活発化して、今は神学校に毎年2人か3人入学している。兎も角日本で、司祭召命が減ってきているとは言えないのですね。東京大神学校は新しく増築しなくてはならない状況です。地方では難しいと言うでしょうが、視点を変えて考えれば如何でしょう。教区同士で助け合って一緒にやっていくということも出来ます。
<終身助祭の誕生>
召命現象の中で、終身助祭ということが考えられています。司祭は、教区本部の事務的仕事に没頭するのは理想的でありません。寧ろこれらから開放されて、教会司牧をすればよいと思う。終身助祭が事務局長とか、教区の会計を受けてくれればありがたい。教区の中にある学校法人の理事長の役職を受け取ってくれれば嬉しい。兎も角、いろんな試みをすることです。明日の教区に向けてあらゆる試みをすることです。こんなことを考えるのが協力宣教司牧なのです。いろんな知恵を出し合っていけば、あと5年後は真っ暗闇、なんて言わないでしょう。神父さんは神父さんらしい仕事をすることを考えるように持っていくことです。
<教区会計の不安・そこには>
"教区会計は経済的に行き詰まっているのですか"という質問に答えましょう。これは先程話しましたように、大丈夫だと思います。本部会計というのは、小教区からお金を貰って、教区を運営していくためのお金です。私の給料はここから出ていますし、私の活動費もここから出ています。教区の事務的な必要に使われるのが教区本部会計です。先程申しましたが、小教区から分担金が支払われているので、今の所は、特別大きな事業をしなければ大丈夫です。あとは、神父たちに払う生活費ということがあります。司教は神父たちの生活を保証する務めがあります。今教区には、国際神学院が出来、司祭の数が増えてきています。嬉しいことですが、その時には給料を払わないといけないのです。また外国に勉強に行かした場合でしたら、更に予算が重なる、或いは日本で何か資格を取らせようとしても、お金が必要です。これについては、危機的な状況にあるといってもいいでしょう。今までは年取った神父さんたちが、ミサ献金を貰ったりして補ってきましたが、この神父さんたちにはもう、それが出来ないのが現状です。
<幼稚園経営の困難さ>
"それなら、幼稚園の仕事をしているからいいじゃないか"と考える人が居ます。幼稚園の園長は、自分の教区司祭としての給料以上のものを貰っている場合は、その差額を教区司祭団の会計に入れるシステムをとっています。みな平等にお金を分け合うシステムです。教区司祭で幼稚園の園長が出来るには資格が必要です。残念なことに資格を持たない人が多い。誰でも幼稚園の園長が出来るわけではありません。今は幼稚園経営も厳しくなって、保育園を一緒にとかいろんな形で、幼稚園を存続させるために苦労している時代です。主任司祭なら幼稚園の園長が出来るという時代ではない。司祭たち同士で自分たちのお金のことをゆっくり話さないといけません。先日の司祭集会では、この問題について話しました。
<神学院会計と、司祭の人件費>
あとは、神学院の会計という問題があります。私が着任するまで、全く会計状況は掴めませんでした。報告はきていましたが、勘定科目についてとか、予算についてとか、疑問が一杯でした。今は法律に沿うように関係者は努力しています。最後は、山下神父さんが残してくれたお金などを、基金として残しています。なるだけ遣わない様にして、いざという時のために貯めています。それを遣い始めたら、なし崩しに教区会計は駄目になる可能性があります。こうして見ますと財政は危機的な状況にあるとは、今のところ言えません。質問の5に、"教区財政が2〜3年で無くなる云々"とありますが、2〜3年で無くなるのは、司祭たちのお金です。司祭たち皆で考えないといけない、同時に司祭をいただいている教会が考えないといけないことです。司祭たちも、貰うばっかりではいけない、信者も同じことです。
<最後に、このことだけは伝えておきたい>
6と7は難しい課題を突きつけていますが、早や時間を超過しました。もう一つだけ話させていただきたい。高松教区の分裂とか一致とかいうことで、神学院は大きな問題です。問題が複雑になるのは、ローマと繋がっているからです。ローマから福音宣教省の長官が来て神学院を設立し、そして定礎式を行い完成させています。即ち、私が高松教区の司教だから、自由に何でも出来る、ということではないのです。常にローマとの繋がりの中で考えないといけません。先月(9月)の終わりに私は、ローマの福音宣教省から呼ばれました。長官と一時間半ぐらい話し合いました。ローマの福音宣教省の考えでは、"「新求道共同体の道」が、今からどのように高松教区に残れるか真剣に対話して欲しい"ということです。実際、創立者のキコさんは、高松を訪れることになっています。然し福音宣教省は、私にではなくて、日本の司教団宛に"「新求道共同体の道」の人との対話をしてください"との手紙を送っています。即ち高松教区のことは、高松教区の司教である私が、一人で解決しないように、日本の司教たちと一緒に決めて、解決するようにとの配慮です。「新求道共同体の道」が、高松教区に入ることで、熱心にこの動きに賛同する人たちが出来ました。その裏には、小教区が停滞していて、このままでは人がどんどん減り、年を取るばかりで、やる気が無くなった教会の現状も多々あったことと思われます。そういう所に溢れるような熱心さで入ってきたのも、彼らではなかったでしょうか。現代教会で「運動」ということを抜きにしては考えられない時代です。世界ではいろんな運動が起こり、動かない教会組織にメスを入れているのです。その一つが「新求道共同体の道」なのです。そのやり方に問題があったのかも知れません。然し我々が今までやってきた伝統とか、我々が今までやってきた方法とかを考え直す時が来ているのです。新しい運動も、それから古い体制のものも含めて、何かを作るとしたら、私は協力宣教司牧しかないと考えます。 −おわり−
※この文章は溝部司教様の校正と配布許可を受けています。