三位一体の主日ミサ説教 ヨハネによる福音(3:16−18)
2005年5月22日
於:宮崎教会
今日は三位一体の祝日に当たっております。毎日ミサをたてるときに、私たちは「父と子と聖霊のみ名によって」と言う言葉ではじめております。今日の聖パウロのコリントの手紙の中では「主イエス・キリストの恵み神の愛、聖霊の交わりが皆さんと共に」と言っております。この言葉はまたミサの中で別の挨拶として自由に使ってもよいと言っているそのところです。
パウロはコリントの信者に、お別れにこの言葉を使いました。「主イエス・キリストの恵み」、これは何を表わすでしょう。ヨハネの3章、今日の福音書を読みますと、「人の子によって永遠のいのちは得られるためである」と言っております。イエスというお方を信じることによって、救いが与えられます。そして、挨拶としては「救いがあなたの上にありますように」という挨拶をミサの中でするわけです。
来月行われる司教会議では、救いとは何かということについての話し合いを行ないます。仏教によってもイスラム教でも神道でも無宗教でも救われることはないかという質問があります。どのように、答えたらいいでしょう。教会に来ている人はこんなに少ないのに、この人たちだけが救われるということがあるでしょうか。他の多くの人は救われないのでしょうか。「そんなのは、おかしい。」今の日本人も、それから400年前の日本人も反論しました。「神様は、きっとそんなことはなさらない。」「神様はみんなが救われることをお望みになる」とヨハネの福音者が言っております。それでも、「イエス様を通さなければ救いがない」と、聖書がまたいうわけです。何という矛盾でしょう。どのように考えたらいいのでしょう。
これが分かるために「神の愛」ということが必要になって参ります。「主イエス・キリストの恵み、神の愛」と次の言葉が続くわけです。神様の愛ってどんな愛でしょう。同じくヨハネは、「一人子を世につかわすほどこの世を愛した。」と言っております。私たちの世の中を見ると、なんて悲惨なことが多いのでしょう。私もこの40年間、青年達と付き合ってきましたけど、昔の青年達と会うと、まさに人生を見ることが出来るような気がします。あんなに嬉々として楽しかった青春時代、でも40年経って会ってみますと、自殺した人がいて、離婚した人がいて、子どものことで悩んでいる人がいて、その他沢山です。もう病気で立ち上がれない人もいる。みんな必死に何かにすがって人生を生きようとしております。この人たちのために、自分の最愛の御子をこの世にお遣わしになった、これが神の愛であると告げるのです。
「友のために命を捨てるほどの大きな愛はない」とヨハネが同じく言います。私たちが伝える愛というのはこういう愛のことです。どうしてイエス・キリストによらなければ救いがないと言う意味がこれを通して、少し見えてきます。
自分の一番大切なものを、人のために、苦しんでいる人のために捧げようとする、この大きな愛、これが神様の愛なのです。その愛が分からなければ、その愛に到達しなければ救いがないのです。
仏教徒であっても、キリスト教徒であっても、神道の人であっても、無宗教であっても、自分本位の、自分の便宜とか、自分の体面だけを考えている愛でしたら救いには至らないのです。でも、これが分かるためには、聖霊の交わりが必要です。私たちの中に働き、私たちを力付け、活気付けてくれる、神の霊があって始めて人のために生きる愛ということに目覚めてきます。
私たちは悲しいほど、形式主義です。形だけの信仰を保っています。形だけ教会に残っているのです。本当に中から私たちを突き動かす霊を持っていません。そして「救われた」と私たちは言っています。
今日は、三位一体の主日を祝っていますが、この本当の意味は、私たちに何によって救われるかを考えさせることにあります。
「イエス・キリストの恵み」、それは愛することを学ぶ。「愛する生き方をする」、それができるために、聖霊の助けを求める、これです。愛こそすべてです。それも自己本意の愛ではない。人のために全部を捧げていく。こんな愛を生きる、これが大事なことなのです。
※この文章は溝部司教様の校正と配布許可を受けています