高山右近の列福運動について (高山右近祭にて)
2010年7月19日
於:小豆島教会
今日は高山右近の列福の運動についてお話をさせて下さい。あとからコピーを配りますので,帰ってからでもそのコピーをお読み下さればいいかなと思います。
まず1965年の4月・5月号,昭和46年の大阪教区の広報誌である「声」という雑誌があります。今は廃刊になっていますが,その「声」にどのように列福運動が起こって続けられたかということが書かれています。でも,その「声」に書いてあるのは,第二次世界大戦の終わる前後の時代から1975年までを書いています。
実際は,高山右近の列福運動というのは,1600年代に始まっています。この1600年代に始まっている列福運動については,今,「カトリック新聞」で私が連載をしております。毎月一度ずつで4回連載となります。これを読むと古い列福運動であることが分かります。400年もかかっていることです。今新しく調査を始めたことではありません。高山右近の生涯その他については,ここで話すつもりはありません。今年の11月国内の高山右近の公式巡礼を組んでいます。それから来年の2月マニラへの巡礼を組んでおりまして,その中で高山右近の生涯は続けて話すつもりです。巡礼団はこの小豆島にもやってきます。小豆島のホテルで「小豆島と高山右近」という講演を私が話すことになっています。小豆島の方々はどうぞお出で下さい。ご一緒に旅行することができたらなお嬉しいことです。
高山右近が亡くなったのは,1615年の2月の3日から4日の夜半です。3日と言っていいのか,4日と言っていいのか分かりません。一応4日としていますが,3日とする人もいます。高山右近の「伝記」は,亡くなったその年1615年にはや出されています。非常に古くから知られている人ということがお分かりでしょう。その伝記を書いてほしいと言ったのは,マニラの市民たちでした。高山右近の列福を求めた人たちが,マニラに残りました。今も高山右近の列福を求めるグループがマニラにあるのです。日本が忘れてしまった400年間,マニラでは高山右近の顕彰をしていました。今回は,マニラの高山右近顕彰のフィリピンの人たちとマニラの大司教様と一緒にミサを捧げるということを計画しています。大阪の池長大司教様も一緒に行かれて,共同司式をする予定です。
マニラでは彼が亡くなったあと,彼についての色々な本が書かれました。マニラにイエズス会の管区があり,管区本部資料館がありました。その資料館で働いていたコリン神父が「東アジアにおける宣教の歴史」という本を書いています。高山右近の正式な列福調査というのは,1630年に始まっていますので,亡くなってから15年で正式な列福調査が始まりました。その正式な列福調査の委員長に任命されたのは,ペドロ・モレホンという日本で長く働いた神父です。1630年,高山右近の聖徳についてということで,10月5日証人に立ったのがモレホン神父でした。その時の証言集が現在も残されています。その「証言集」はスペイン語で書かれたのですが,それがヨーロッパに持って行かれ,イタリア語に訳されました。イタリア語で翻訳されたのは,ローマイエズス会の本部にあります。今,私たちは,イエズス会の本部にありますイタリア語のものを取り寄せまして翻訳をする計画を立てています。翻訳するのには時間がかかるし,大変な仕事になります。でも,やらないといけないと思っています。
1640年代には日本に働く神父は一人もいなくなります。日本は迫害が厳しく日本の情報が入らなくなります。日本についての報告がないまま,高山右近も日本の殉教者の運動も下火になってきます。第二次世界大戦が終わって,高山右近の列福の中心となった人は,上智大学の教授でドイツ人のイエズス会の神父,ヨハネス・ラウレスでした。 ただ残念なことに正式な列福運動が始まる1960年の1年前,1959年に亡くなってしまいます。188殉教者の時に一番功績のあった結城神父様は列福式の1週間前に亡くなったのを思い出します。功績のある人は,たいがい実りを見ないでその前で亡くなるみたいですね。私たちは,右近が亡くなったのが1615年ですので,一応2015年,あと5年を目処に高山右近の列福を目指して仕事を続けています。あと5年頑張って,うまくいけば大阪のカテドラルで列福式が行われるだろうという希望をもってやっております。
400年前ペドロ・モレホンという神父が功労者ですが,戦後大事な人は,ヨハネス・ラウレス神父です。この神父は,上智大学の中に「キリシタン文庫」というものを作りました。「キリシタン文庫」の中には殆どすべての文献が収集されています。昔は,いつもローマとかスペインとかポルトガルに行かないといけませんでした。今は,キリシタン文庫で全部見ることが出来るのです。全部コピーが写されていますので,非常に便利な時代になっています。
1945年に戦争が終わり,その翌年,1946年に日本の司教団が高山右近の列福の申請を決議しております。戦争で荒廃しつくした日本の中で,高山右近を列福する運動を通して,自信を失いみじめな状況にある日本人に自信と,勇気と,誇り,これらを与えようとしたのでした。これが高山右近の列福運動の始まりになります。1963年の日本司教総会で,高山右近の列福を正式に決議し,それを大阪教区に委任します。大阪教区が責任をとってくださいということになります。そのころ,この高松教区は大阪教区に属しておりました。
大阪教区の田口大司教は,バチカン公会議に参加していてローマにある礼部聖省,今の列福列聖省を訪れ申請の事を申し出ます。ところが高山右近が亡くなったのはマニラであり,亡くなったその場所の司教が申請人になる,すなわちマニラの司教が申請人になるのが決まりでした。田口大司教は,申請人を日本の司教にしてくれるようマニラの大司教に願いました。そして,許可されました。その列福申請人としてイエズス会のパウロ・モリナリ神父が任命されました。今は彼ははや90歳近い年齢です。2年前にモリナリ神父と食事を一緒にしましたが,宿舎まで送ってくれると言われるので,どのように送ってくださるのかと思いましたら,車だったのですね。死ぬ思いで乗りました。ふらふらしながらローマの市内を運転して送ってくれたのを覚えています。モリナリ神父にはこれ以上できないということで,オーストリア人のウィットベル神父が責任をとることに,今はなりました。今年の秋にウィットベル神父が日本に来るだろうと思いますので,私は小豆島にも案内しようと考えています。それから後,歴史調査委員が任命されました。188殉教者の時も,司教団が決議した後,5人の歴史調査委員がすぐ任命されました。それが1984年であり,その5人の中の一人が私でした。この64年には3人が歴史調査委員に任命されています。上智大学でキリシタン史を教えていたドイツ人のシュワーデ神父,キリシタン研究で有名な片岡弥吉純心大学教授,それからキリシタン研究会の会長であったチースリク神父の3人でした。そのうちにシュワーデ神父はドイツに帰ってしまったので,その後を継いだのが,26聖人記念館の館長,結城了吾神父でした。この3人が歴史調査委員会で文献の調査書というものを作っていきました。この調査書というのが今私たちの手元にありますが,これが大事な文書になります。
こういう学問的なこととは別にしまして,大阪大司教区では早くから高山右近の列福運動が行われています。1946年司教団が決議したその年,昭和21年に「列福請願の碑」を高槻教会で建てています。それは最初高槻城内にあったのですが,いろいろな事情があって今は高槻教会の中に建てられております。高山右近の列福と戦争の傷とは非常に大きく繋がっているということ,早くからこの運動は熱心に行われたということが私たちにはわかります。それからあと20年間くらいは一生懸命でした。列福運動を請願するという意向で,日本全国から署名が集められました。それをローマに送るためです。集まった署名が5万6千くらいです。小豆島の信者さんたちも随分沢山署名しております。私が署名書を全部持っていますので,調べたらすぐ分かるのですが,高松教区からも一千名という人がサインしております。これを見ると高山右近列福運動は決して新しいことではないということがお分かりでしょう。
1614年の2月の14日徳川家康の禁教令が発せられ,家康は金沢の前田利長のところに使いを送り,高山右近,内藤如安など主だった人を金沢から追放するようにという命令を下します。こうして,24時間以内に彼らは金沢を去っていきます。この時,表面的にでも信仰を捨てるようにといわれるのですが,「それは出来ません」と彼は答えています。2月の15日に雪の金沢を出立して,坂本までの雪の山道を歩いて行きます。一緒に出発するのは右近とその妻のジュスタ,娘ルチアと,亡くなった長男の子供5人,そして内藤如安とその妻と子供4名と孫4名の総勢18人でした。金沢を出発して,2月25日に比叡山の下の町坂本に到着します。そこでは次にどうなるかの命令を待つ日々がありました。一ケ月後の3月26日に長崎に行くよう命令が来て,大阪を出立し船で長崎に向かい,4月の16日に長崎に到達します。長崎は,今,春徳寺があるところですが,ここは一番古い長崎の教会であるトドス・オス・サントス教会があった場所になります。この教会は殉教者の遺骨が全部収められていた教会でして,その遺骨は1614年マカオに送られています。春徳寺の傍に住居が与えられて生活することになります。今度の巡礼団は,こちら小豆島から長崎に飛んでこの春徳寺に行くことにしています。それから彼らが船に乗ったであろうと思われる福田の港まで行って,そこから日本を去って行きました。
11月の7日・8日にかけまして,すべての聖職者はマカオ,マニラへと追放されていきます。マニラ行きには高山右近,内藤如安らが乗っています。それから23人のイエズス会員,その中にモレホン神父がいました。17人のフランシスコ会,ドミニコ会の神父たち,15人の同宿カテキスタ,神父になりたいと思っている準神学生といった人たち。そして,比丘尼と言われた日本で日本の修道女が15人同船していました。総勢650人が2艘の船でマニラに流されていきました。一艘はおんぼろで,一艘はどうにか新しいという船でした。12月の11日にマニラに到着。今度の2月の巡礼は,この長崎からの旅行を追って旅する予定です。
彼はイエズス会学院の近くに住むことになりますが,マニラではものすごい歓迎ぶりでした。彼はいつも日本の殉教者ということで歓迎されています。今私たちが彼を殉教者と言っているのは不思議ではありません。その時から彼は殉教者だと,みなが思っていたからです。ところがもう体の限界で,1615年の2月に病気になり,3日から4日にかけての夜半に死亡いたします。遺体はイエズス会のサンタ・アナ教会に葬られ,教会葬が行われ,更にその遺体はイエズス会のコレジオの聖堂に移されることになります。先程言いましたように,亡くなったその日から聖人伝という形で「高山右近伝」が書かれていて,この人は聖人だという噂が流れ,その遺体は大事に大事に他の人の遺体と区別して葬られました。今度の巡礼の時には,どこの教会に最初に行って,どんな話をして,その次どこに行って,どんな歓迎を受けてと,ひとつひとつ丹念に廻って行くつもりです。もしも,巡礼に行きたいと思う方は賀川乙彦の「高山右近」という本が出ていますので,それをゆっくり読んでくだされば巡礼の時に役立つだろうと思います。
戦後の立役者がラウレス神父だと言いました。戦前の立役者はモレホン神父です。モレホン神父というのは,長く京都・大阪で働いた神父で,日本26聖人の時に大阪の修道院長で,パウロ三木の院長でもあります。彼は,高山右近の霊的指導司祭でもありました。高山右近はイグナチオの霊操をやっていますが,それがモレホン神父の指導の下です。彼の生涯中2回霊操をしているのは,はっきりしています。モレホン神父は,一番高山右近をよく知っていると言ってもいいでしょう。
モレホン神父は1614年に日本を追放されますが,追放されてからマニラに1年近く滞在します。その間に日本の殉教者の記録を沢山集めています。マニラからメキシコに渡り,メキシコでの滞在1年の中に,高山右近を含めて日本の殉教者についての本を出版します。さらに,彼はメキシコから故国のスペインに行き,サラゴーサで1615年の日本の殉教者のことを加えて一冊出版します。この本は,今日本語に翻訳されています。さらに彼はローマに行ってローマでスペイン語で書かれた高山右近の列福の証言集をイタリア語に翻訳しています。私たちは,このような資料をもとに高山右近の列福の調査をしているわけです。おもしろいことに,彼はこれが終わったらまた東洋に戻ってきます。日本には入れないまま,マカオで院長の仕事任されます。そのころ,タイのアユタヤには山田長政がいて,タイ王室の軍事司令官のような役職に就いていました。スペイン人とオランダ人の戦争がタイで行われ,スペイン人の捕虜がタイに抑留されるという事件がありました。このスペイン人の捕虜を抑留から解放する役目を,マニラのスペイン政府はモレホン神父に託します。モレホン神父の交渉が成り立って,彼は捕虜を連れてマニラへ渡ります。この時,マニラで出会ったのがペトロ・カスイ岐部神父でした。モレホン神父がペトロ・カスイ岐部神父についての報告をしたおかげで,岐部神父はどこで何をしていたのかが,今,私たちには分かるわけです。それが終わって,彼はマカオに戻りますが,ローマはモレホン神父に日本の殉教者について,きちんとした報告書を作るようにと命令します。こうして彼は日本の殉教者についての列福調査,列福委員会の委員長に正式に任命されます。1630年,彼はマカオからマニラに行き,マニラで法廷を開きます。日本の殉教者のことを知っている人々を呼び集めて,その証言を集めていくという作業をしました。この作業の時に,高山右近の証言に立つのは,モレホン神父でした。モレホン神父はマカオで1639年に亡くなります。それから後,日本は激しい迫害に入り日本の殉教者の列福運動も冷めていきます。モレホン神父が書いた1615年のサラゴーサ版の「殉教録」では8章・16章・17章が高山右近にあてられています。
終戦後,1965年から始まって80年ぐらいまで,非常に熱心に高山右近の列福運動が進められました。最初日本教会は,高山右近を殉教者というよりは,「証聖者」として申請しました。そのうちに田口大司教が亡くなり,大阪教区で熱心にやっておられた神父たちが亡くなったとかで,運動は下火になってしまいました。ついに,大阪司教区は高山右近のことはこれ以上できないと言って,管轄権を東京教区に移してしましました。その頃,188日本「殉教者列福調査特別委員会」が発足し,高山右近のことも,この殉教者の委員会に入れて考えることになりました。しかし,実際は列福調査委員会は188の殉教者に追われ,それ以上のことはできませんでした。手が伸びないということで,高山右近のことはそのままそっと置かれ,戦争が終わって60年経っても高山右近は日の目を見ずに今まで来てしまいました。
しかし,2年前,188殉教者の列福が終わった段階で,高山右近に力を入れないといけないと,委員長である私は主張しました。そこで何とか目処を付けてやってみようという大勢が決まってきました。最初に熱心だった信者さんたちはみなさん年をとったり亡くなったりしています。事情が分からなくなってしまったというのが現状で,その中でもう一回ゼロから始める状況です。
まず最初に「証聖者」ではなく「殉教者」として,すなわち,信仰のために国を追われた人として申請をするということです。それから,1975年の歴史調査委員会が準備したタイプ印刷の資料集を見直して書き直していく作業があります。この二つの大きな作業が急務です。この資料集は1000頁くらいあり,大変なのです。幸いに私はラテン語が分かるという強みがあります。説明は,すべて最初ラテン語で書かれています。資料の説明は全部ドイツ語です。と言うのは,チースリク神父,ラウレス神父と全員ドイツ人ですのでドイツ語で書いています。資料の原文はスペイン語かポルトガル語,又はイタリア語です。日本の文献は日本語からドイツ語に訳されています。こんな面倒な資料を抱え,今一度すっきりとした形に書き直していくということは大変なことです。ワードでもう一度全部を打ちこんでいく作業は考えただけでも気が遠くなるようでしたが,ところが,最近は幸いにスキャナーというものがあり,資料は全部コンピューターに自動的に打ち込まれます。こうして画面を見ながらその場で訂正していくという便利な作業になりました。全部打ち直す必要がないということで,これだけはありがたいと思っていますが,やはり1000頁は苦労です。この一年間でその作業を全部することになっています。今週金沢で委員会がありますので,仕事の分担を決めながらやっていくつもりです。
列福運動のお話だけをしました。こういう運動をしながら思うことがあります。それは,思い入れを深くしないと事は成り立たないということです。中途半端で腰砕けの人がいくらやっても事は成り立たない。これは,ほかのすべてについて言えるのではないかと思います。仕事を任しても,腰砕けで途中になったらポーンと投げだすような人に任せても,ことは成らないとつくづく思う次第です。地味でもコツコツとひとつの事をやり遂げていくことは,大した仕事だと信じて疑いません。私も,これで30年殉教者のことをやってきています。非常に大きな知識を得たと同時に,仕事をするとはどういうことかということをよく分からせていただきました。今は高山右近にのめり込んでいますが,のめり込めばのめり込むほど,いさぎよい,清潔な,自分の意思をきちんと全うしていく武士,侍の精神をキリスト教的に生かした見事な人であると考えさせられています。同時に,自分がどんなに右に左に揺れて,そして志の浅いことよと自省することが多くあり,何度も彼の伝記を読み直しています。まだまだ仕事が沢山あるのですが,やればやるほど自分の人生の糧になっていると感じています。いまからいろいろな機会でみなさんと高山右近について分かち合えればいいなと思います。
それから一つの知らせですが,東には徳島の阿南で結城了雪神父が生まれて育っています。四国の誇りだと思います。で,西ではまだ殉教者で列福されていませんが結城了雪と同じころ殉教した「伊予」という神父がいるのを最近知りました。私が早めに四国の高松の教区の司教になっていたら,伊予神父は列福を推薦したのにと思いました。その頃は考えもしませんでしたので,四国の誰も推薦しませんでした。伊予神父は松山出身で確実な殉教者です。しかも壮絶な殉教をしております。高山右近と小豆島,結城神父,伊予神父のことを考えたら,四国も長いキリスト教の歴史を有しています。私たちは現代信者であるかもしれませんが,昔の信者と一つのキリストを共有しています。同じメモリー,同じ記憶に生きている,キリストの死と復活に生きている,時空を超えた300年,400年,500年という時間を超えて繋がっています。諸聖人の交わりというのはこういうことです。
この土地(小豆島)に短い期間でしたけれど,高山右近やオルガンティノ神父が生きて,その中で何を交わり,何を語ったか,こんな思いを強くしています。
※司教様チェック済み