ウィークリー・メッセージ 2015第12回
「四旬節第4主日」
松山教会担当司祭 ルイス・グティエレス
今日の第1朗読に登場する旧約の箇所は、ユダの王セデキアの悪行が重なり、エルサレムも神に従わず、ついにはカルデア人に滅ぼされ、バビロンの捕虜の身となる場面です。
選民として神に呼ばれたイスラエルの民の罪に対して、神は外国人であるペルシャの王キュロスを使って赦し、救いの手を差し伸べられます。
キュロスは異邦人でありながら、「神なる主が、その者と共にいてくださるように」と祈り、イスラエルの民の将来に希望をかけます。
悪いことをすれば、その民に罰がくだり、良いことをすれば、そのご褒美として救いが与えられるという考えは、とても分かりやすく、また常識的です。
たいがいの日本人にとって、神とはそういう方ではないでしょうか。しかし、キリスト教は全く違うのです。
『事実、あなた方は、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜です』
行いによるのではありません。それは『だれも誇ることがないためです』と、パウロが強調しています。
私たちの行いの善し悪しで、神の救いが決まるのではないのです。
今日の第2朗読の少し前で、パウロは次のように言っています。
『ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。しかし,憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました』。
第1朗読でも、イスラエルの民が回心し、神に謝り立ち返ったために救われたものではなく、外国人のキュロスの信仰によって救われたと言えるでしょう。
キリストの教えは、宗教ですから当然、倫理を含みます。しかし、最終的な救いと、このようにいる間の私たちに対する神の救いは、私たちの行為によるものではなく、憐れみによって与えられたのです。
全くの他力本願と言えます。
ですから、「もっと神の掟をよく守らなければ、愛していただけない」のではなく、いつまでも罪深い私たちであり、罪を犯し続けるにもかかわらず、神が愛してくださるのです。
それは、いい加減な生き方で良い、とするのではありません。『神が準備してくださった良い業のために、キリスト・イエスにおいてつくられたからです。わたしたちはその良い業を行って歩むのです』と、パウロは言っています。
私たちは、なるべく罪を犯さず、悪いことをしないようにして、生きているのではないのです。洗礼を受けたのは、もっと良いことを積極的に行うためなのです。
『イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです』と、ヨハネは第1の手紙で言っています(3−16)。
『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛されました』それは、『人々が救われ、永遠の命を得るため』とヨハネは繰り返して言います。
『永遠の命』は、神によってのみ与えられるものです。神に、これほどまでに愛されているのですから、私たちも、この愛にふさわしい、良い行いをして、ほかの人々のために手を差し伸べる愛の人となりなさい、というのが福音の教える倫理です。
私は、神が備えてくださった道、即ち,イエスを信じ、イエスのみ言葉に従うことが、私たちに永遠の命をもたらすのです。
『憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいた私たちをキリストと共に生かしてくださいました』(エフェソ2−4)
神の憐れみは、私たちに対する愛の深みから湧き出たものであって、私たちの働きによるものではありません。
私たちの側に要求されるのは、ただ「信仰を増してください」と願い求めることだけです。神は、洗礼によって私たちの心に入ってくださいました。
そして私たちが、十字架のもとに座し、高く上げられた御子を見つめるとき、その救いのみ業を深めてくださるのです。
☆ ☆ ☆
「主よ、私たちはしばしばあなたに背を向けた昔のヘブライ人のようです。どうぞ、私たちが心を清め、あなたのみ声を聞き、御憐れみをいただくことができますように。
あなたがこれまで示してくださった愛と憐れみを、私たちも聖霊によって、ほかの人々に示すことができますように、力をお与えください。」
A lecture or an input for the retreat during the Lent.(四旬節の間に心得ておきたいこと:英語版)はこちらへ>
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