ウィークリー・メッセージ 2015第20回
「復活節第6主日」
番町教会担当司祭 松永
洋司
先日、北アフリカからイタリアに向かう避難民を乗せた船が転覆し、多くの命が失われました。紛争が起きるたびに、難を逃れて国を出る人が後を絶ちません。日本にも多くの人が身を寄せています。そして難民申請をしています。しかし、受理されたケースはまれのようです。
律法の書は保護を要する者の代表として、孤児と寡婦、そして寄留者を挙げています。いずれも後ろ盾を失った人たちです。律法は配慮を求めます。神さまに向かって叫ばせないための心配りです。出エジプト記はいいます。「寄留者を虐待し、圧迫してはならない。あなたたちはエジプトの国で寄留者であった」と。
この三者との関わりをイエス様も大事にされました。イエスさまの心を示す配慮を見れば良く分かります。それは異邦人との関わりでも同じだったのではないかと思います。イエスさまの時代にも異邦人との間に一線を引いていたようだからです。
イエスさまは「わたしはイスラエルの失われた羊のところにしか遣わされていない」とカナンの婦人に仰せられます。しかし、そうはいいながらも、彼女の信仰をたたえ、願いを叶えられました。それは百人隊長の場合も同じです。必要があれば応じられるのがイエスさまでした。異邦人だからと排除しません。それはペトロも同じです。ペトロはコルネリオに洗礼を授けたことでエルサレムの教会から非難されました。その際、いきさつを説明します。エルサレムの教会は異邦人にも救いが開放されたことを知り、神さまを讃えます。そして教会は異邦人に門戸を開きます。それはパウロによっても力強く推進されていきます。
ペトロにしてもパウロにしても、ことに当たり多くのことを学んでいきます。異邦人への宣教でも同じです。ここでも判断基準はイエスさまを介して示された教えです。イエスさまに軸足を置いての判断によるものです。それはペトロがいうように、「神が清めたものを清くないなどといってはならない」からです。
イエス様にとって御父が全てでした。イエスさまの言葉としるしは御父の意を汲んでのものでした。イエスさまは仰せられます。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」と。軸足をイエスさまに置く者への掟です。
イエスさまに友と呼ばれる私たちです。全ての人のためにイエスさまは命を捨てて下さったからです。これ程価値あるものとして評価されていることを有り難く思います。であれば、イエスさまの友とされた者の集いが教会共同体といえるのかも知れません。それは異を認めつつ、心の扉を開いて迎え、「神は愛」のしるしとなる、お互いを大切にし合う教会共同体なのだと思います。
番町教会 松永洋司
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