ウィークリー・メッセージ 2015第26回
「年間第13主日のマルコによる福音から」
鳴門教会担当司祭 乾
盛夫
イエスがガリラヤ湖のほとりで人々に神の国のことを説いていて、その実りあることばと交わりに人々は群衆になって、さらに求め続けていた。その中で直接イエスに触れた二つの出来事が記されている。
会堂長のヤイロという名の人が出てきて、イエスの足もとにひれ伏して「自分の幼い娘が死にそうなので、来て手を置いてやって欲しい」と懇願した。そこでイエスはヤロと一緒に群衆の中を出かけて行かれた。
だがそのとき、イエスに最後の信頼を掛けた出血症の女が擦り寄ってきて、「後ろからイエスの服に触れた」。「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思って。イエスにとっては、ご自分に触れたこと=ご自分の命に通じたことだった。これが弟子たちと群衆の前でのできごとだった。身に起こったことを知り恐ろしくなり震えている女に、イエスは「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。(元どおりになった)元気に暮らしなさい」と行かせた。
この間取りのためにヤイロの娘が亡くなったと家からの知らせが入る。家に向かっていたイエスは会堂長に「恐れることはない。ただ信じなさい」と繋いでから3人の弟子だけを着いてこさせて会堂長の家に入る。そこで泣き騒いでいる人々に、「子供は死んだのではない。眠っているのだ。」と言い、あざ笑われたが、皆を外に出し、子供の両親と3人の弟子だけを連れて子供の居る所に入って行く。そこでイエスが子供の手を取って「少女よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。少女はすぐに起き上がって、歩き出した。
この信仰によって繋がれた二つの救いのできごとは神の国の到来を意味する福音です。
一つは素直に神に向かって心を馳せる人間に神からほとばしり出る慈しみの現実が告げられています。もう一つは、イエスご自身からの触れあいの現実が告げられています。この二つの現実はミサ聖祭の中に繰り返されているのではないでしょうか。
鳴門教会・乾 盛夫
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