ウィークリー・メッセージ 201527

 

平凡」 (マルコ6章1−6)

 

 ブラザー 八木 信彦        

 は昔も今もとかく、特別な人、出会い、出来事、環境、教育、家庭の中に、大事なことや大切なメッセージや神が隠されているように錯覚し、これらのことをその中にさがそうとしている。けれど、そういうところにもだけどむしろ、平凡な日々の日常生活、さりげない仕草、ささいな出来事、身近な人、そういうことの中に神さまが確かに静におられる…そんな気がしてならない。なぜなら、特別なものは自分が求め、平凡なものは神から与えられたものだから。

 イエスの故郷の人々の驚きと不信仰から、逆に、イエスの幼少・少年・青年期がいかに平凡な家庭や教育、環境の中で育ち、ごく「普通」の若者であったことが見て取れる。何しろイエスにつまずくほどであったのだから。イエスの言葉や行いのすばらしさに触れていても、なおも認めないのであるからよほど「普通」なのかもしくは「普通」以下だったのかもしれない。いわゆる「無名」だった。けれど、そういうところに神はおられる。

 最後に、私と同じオブレート会ブラザーで画家であった、ブラザー津田季穂つだ すえおのエッセイで終わりたい。

私は思う

偉大な壮麗な人を驚倒させるような
いわゆる一大惑星となるよりはむしろ野に咲く名も知れぬ
小さな花となることこそ望ましい

ダリアや薔薇にはさほど驚かないが
あの小さな小さな黄色や紫の花をつけた
心なき人に踏みつけられてしばらく咲くあれらの花にこそ
もっとも驚くべき神の創造の神秘を見つけませんか。

私はあれらの名も無い花の美しさを見ると胸が熱くなります。
摘むことはできない
踏みつけるか 愛でるか 二つにひとつ
そんな画家になりたい

 

 

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