ウィークリー・メッセージ 2015第28回
「幸せ」
道後教会担当司祭 川上
栄治
今日の福音でイエスは弟子たちを派遣する時に「杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たない」で行くように命じられました。これは現代を生きるわたしたちには戸惑いを与えるメッセージです。
現代社会は多くの物にあふれて、人々はそれを手に入れることに喜びを感じます。しかし、物を入れれば入れるほど、ますます欲しくなります。「もっと新しい物、いい物が欲しい」という欲求が生まれるからです。この欲求が「完全に」満たされることは決してありません。なぜなら、「物」に対する欲求は自己完結してしまい、周りの人との交わりに心を向けないからです。今新聞やニュースで見聞きする悲惨な出来事の多くは、周りとの交わりが不十分である人々が引き起こしたものです。
イエスの弟子たちは、イエスの指示に従って、人々を癒やしました。それはイエスとの交わりの中で弟子たちが行った業です。その時弟子たちが何を感じたのかは福音に書いていませんが、「先生であるイエスの言葉に従って働いている」という「幸せ」を感じていたことでしょう。第二朗読の使徒パウロは手紙の冒頭で次のように書いています。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神はほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。」 この言葉はパウロが喜んで神をたたえていることを示しています。つまり、パウロは神との関係のうちに「幸せ」を感じていたのです。
イエスの弟子たちはわたしたちよりはるかに物が少ない時代に生きていました。それでも、彼らは幸せを感じていたのは、彼らに「神がわたしと共にいる」という確信があったからです。つまり、イエスの弟子たちは神との「交わり」のうちに生きていたのです。「幸せ」とは「物」を所有することではなく、「交わり」のうちに生きることである、と彼らはわたしたちに教えてくれます。
もちろん、神がわたしたちの生活で起こるすべての困難を解決してくれるわけではありません。しかし、「神がわたしと共にいる」と信じる時、わたしたちは「一人ではない」と思い、支えを得ることができます。その時、わたしたちは「幸せ」を目に見える物に見出すのではなく、神との関わりと周りの人との関わりのうちに見出すようになります。それが現代を生きるわたしたちに必要なことではないでしょうか。
<八木ブラザーの記事「平凡」に行く | フェルナンド神父の記事「尽きることのないイエスの憐み」に行く> |