ウィークリー・メッセージ 201531

 

年間第18主日」

 

 高松教区本部事務局長・助祭 西川康廣        

 日の(第2朗読)エフェソの教会への手紙は、「神に象って造られた新しい人を身につけ、真理に基づき正しく清い生活を送るようにしなければなりません」(エフェソ4,24)と勧告している。真理に根差した生き方をしなければ、決して清い生活を送ることはできません。「わたしは道であり、真理であり、命である。」(ヨハネ14,6) いろんな道があるが、命へ至る真理への道は唯一つ、それはイエス・キリストご自身のみである。
古代エフェソはトルコの西海岸に接するかつての大きな港町、聖書時代には貿易によって富み栄えたアナトリア地方の一つだったのは間違いないだろう。エフェソの港からエーゲ海を臨み、向こう側には当時の大都市アテネや交易で盛んだったコリントの町がある。いろいろと歴史に思いを馳せながら当時のエフェソを一歩一歩足を進めて行くうちに、「経済が盛んになると人の目は曇り、経済が最も大切な神になる」というのが歴史の常であったと実感させられる。古代エフェソの街に建立された聖ヨハネ教会遺跡から、壮大なエフェソのアルテミス神殿遺跡を見渡すことができるが、近くの博物館を見学すると、いかに当時の人々が富と繁栄と快楽を希求した生活を過ごしていたかが想像できる。パウロはこのような世界に福音を携えて行き、キリストによって新しく裏打ちされた聖なる生き方を開く宣教の旅へと出向いたのである。「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか。」(ヨハネ6,28)、現世的なことを否定するのではなく、イエス・キリストを通して現世的なことを天上的に、肉的なことを霊的に、一時的なことを永続的に見ていく術をパウロは伝えたのである。

第1朗読の出エジプト記も、同じことを読者に伝えているのではないかと思う。エジプトにおいて400年間奴隷状態にあったイスラエルの民は、そこから解放された喜びも束の間、やがて彼らは様々な生理的欲求と出会う。エジプト脱出後、最初の到着先メラでは喉の渇きを訴えて水が与えられ、更に南下してエリムでは空腹を訴えてマンナが与えられ、更に南下してドフカではマンナに飽きて肉が食べたいと訴えた。ここからイスラエルの民はいよいよシナイ半島の内陸部へ進路を転じ、神の民として生きる道しるべとなる『神の十戒』を授与するシナイ山へと向かうことになる。こうして旧約の長い歴史を通して選民イスラエルは、祭司の王国・聖なる国民となるように、神のお招きに応答していくべく召命の道を歩んで行くことになる。

 今日の福音箇所の直前の話は、ガリラヤ湖の北東に位置するベトサイダにおいて、イエスがパンの増加の奇跡を行い、5千人の人々が満腹するまで食べた出来事が書かれている。イエスは奇跡を起こす前に、フィリポとアンデレに群集に食べ物を与えるように指示したが、彼らの返事は「あいにく何も持ち合わせがない」、つまり不可能という意思表示をした。そこにたまたま居合わせた少年が、5つのパンと2匹の魚を持っていたので差し出すと、イエスは奇跡をもって5千人の人々がお腹一杯になるまで食べたという話である。

わたしたち日本人は外国人と比較すると、どちらかというと自己嫌悪の性格が強く、本当の自分と出会うことがなかなか難しいのではないだろうか。自分の弱さや脆さ、欠点や罪、心の中に潜むどうしようもない自分の醜さや汚れ、これらからの解放はとても難しいことです。今日イエスが語られた言葉、「あなた方がわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ人の子があなた方に与える食べ物である。」とはどういう意味でしょうか。「神の国は近づいた」という言葉が意味するように、神の方から恵と救いをもたらすために近づいて来てくださった。イエスは食べ物と成って私たちの中に飛び込んで来てくださる。このイエスと出会い、イエスに触れ、ありのままの自分を差し出すことによって、イエスは必ず良いものに再創造してくださるということではないでしょうか。
神のパンは、天から降って来て世に命を与えるものである。この言葉の神秘をさらに深く噛みしめていきたいものです。

 

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