ウィークリー・メッセージ 201549

 

待降節第3主日」

 

 番町教会担当司祭 松永 洋司        

 「いつくしみの特別聖年」が「無原罪の聖マリアの祭日」から始まりました。「イエス・キリストは御父のいつくしみの御顔です。キリスト者の信仰の神秘です。一言で言えばこの表現に尽きると思います」と、教皇はいいます。わたしたともイエス様の言葉と業を見つめながら御父のいつくしみをかみしめたいと思います。


 今、世界の状況は混とんとして来ているようです。地球の環境も悪くなる一方です。国と国、人と人の関わりもぎくしゃくしてきているようです。テロも後を絶ちません。そんな時だから「神のいつくしみ」を想うことは時宜にかなっているのかも知れません。
 かつてイスラエルの民はどん底体験をした際、神のいつくしみを体験しました。中でもエジプトでの強制労働体験、そして捕囚の体験の際です。そこでは苦しむ民の叫びに黙ってはおれない、神さまを体験しました。それをエジプト脱出、そして捕囚からの帰還に見ることが出来ると思います。


 バルクは廃墟と化したエルサレムに残った民に、栄光の回復を告げます。主の意に添おうとしなかったがゆえの捕囚でしたが、都の繁栄の輝きの回復を告げることによって、残留の民に希望を抱かせました。神さまの配慮です。神さまのいつくしみの顕れです。


 神さまのいつくしみは、たみがどん底に落とされた際に顕れます。預言者はそのことを告げました。それはイエス様の時も同じでした。神さまはまず、洗礼者ヨハネを遣わされ、救いの訪れが近いことを告げます。洗礼者ヨハネはその備えとして、罪の赦しを得させる悔い改めの洗礼を宣べ伝えます。


 イエスさまはお出でになって、神の国、神の支配の到来を告げます。そして、救いを必要としている人々に手を差し伸べ、救いに与らせ、神の国の到来のしるしとしました。そこに神さまのいつくしみを見ることが出来ると思います。そしてその極みを十字架に見ることが出来るかも知れません。
 パウロは祈りの中で、「キリストの日に備えて、清い者、とがめられるところがない者となるように」と、祈っています。キリストさまを介して「アッバ、父よ」と叫ぶことの出来る者の備えです。神さまのいつくしみを生きること、これもまた洗礼によって清められた者の神さまへの応えと云えるかもしれません。


 キリシタン時代、「慈悲の所作」が勧められていました。身体的、精神的慈悲の業の勧めです。「餓えている人に食べさせ、渇いている人に飲み物を与え、着るものを持たない人に衣服を与え、宿のない人に宿を提供し、病者を訪問し、受刑者を訪れ、死者をまいそうする」ことです。イエスさまは仰せられます。「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである。」

松永洋司     

           

<西川助祭の記事「「待降節第2主日」に行く 岩ア神父の記事「布にくるまっている乳飲み子に思う事」に行く>

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