ウィークリー・メッセージ 2016第3回
「主の洗礼」
道後教会担当司祭 川上
栄治
先日とあるテレビ番組を見ていると、イエス・キリストについて次のような解説がありました。「イエスはマリアとヨセフから生まれ、ヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時に神の子となった。」 それは福音書にイエスが洗礼を受けた時に「聖霊が鳩のように降った」と記しているので、これをイエスが「神の子」となった時と解釈するのでしょう。
けれども、この説明はキリスト教の信仰において受け入れられないものです。なぜなら、イエスは「神の子であった」のに人間として生まれたとキリスト教は信じているからです。もちろん、イエスが「神の子」であったと論理的に証明することはできません。それは「信じる」事柄です。神の子イエスが「人間」となったことがキリスト教の信仰における最も中心的なテーマであり、このテーマを明確に表すものとして、主の洗礼という出来事を福音記者は記しているのです。
福音記者が記しているイエスの洗礼は、洗礼者ヨハネという人物が授けたものです。洗礼者ヨハネは「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」(ルカ3章4節)人物です。イエスが神の子であったなら、「罪の赦し」を受ける必要はなかったはずですが、イエスは洗礼を受けたのです。この時の興味深いやりとりがマタイ福音書に記されています(マタイ3章13〜17節参照)。
洗礼者ヨハネは「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」 しかし、イエスは言われた。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」 この「我々にふさわしいこと」という言葉に注目しましょう。この聖書の言葉には様々な解釈がありますが、その一つとして「イエスは洗礼を受けることによって、神の望みに従って生きていく一人の信仰者となった」という解釈があります。言い換えると、神はイエスに「人間として」、つまり当時の社会で生きている人々と同じ歩みで生きることを望まれたということです。これが主の洗礼を祝う意味なのです。ですから「聖霊が鳩のように降った」という記述は、この時、聖霊がイエスに与えられてイエスが神の子となったと理解されるのではなく、人となったイエスが神の言葉を伝えるために神からの助けが示されたと理解されるべきなのです。
この日をもってクリスマスは終わります。神の子であった方が人間となったという出来事をイエスが成人して社会で公に活動を開始する最初の出来事で締めくくられるのです。その意味を少しでも多くの方に知っていただきたいと思います。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3章16節)のです。
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