ウィークリー・メッセージ 2016第19回
「復活節第6主日」
松山教会担当司祭 ルイス・グティエレス
彼の傑作にバチカン・システィナ大聖堂の天井壁画『天地創造』があります。その中でも、私にとって最も印象深いのはアダムの創造≠フ場面です。
ひげを生やした神様が、アダムの方に右手を伸ばしています。そしてたった今、息を吹きかけられて人間になったばかりのアダムは、力なくと見えるその左手を神様の方に伸ばし、2人(というのでしょうか)の人差し指が触れ合っています。じっくりみますと、触れんばかりになっている、というべきかも知れません。
その人差し指の触れ合いの接点に、何か神秘的なものを感じさせられます。
そこに神様から人間に向かおうとする努力と、人間から神様に向かおうとする努力を見ることが出来ます。
もっと言えば、神様の私たち人間への愛の動きと、人間の神様への感謝と信仰への動きが、その接点に秘められているような気がします。
カトリックの中に他力本願というか、人間は何もしなくて良いかのような言い回しを聞くことがあります。
また、ときには自力本願というか、人間の能力を過信しているかのような言葉を聞くことがあります。
どちらにも偏らないのが、真のカトリックではないでしょうか。
神様がいくら人間に手を差し伸べられても、人間がそれを従順に受け入れようとしなければ、そこには何も起こらない。
人間がもっともらしく手を差し伸べても、神様の伸ばされる手の方に出なければむなしく、宙に浮く≠ニいうことになるのではないでしょうか。
今日の福音で言えば、『わたし(キリスト)を愛する人は、わたしの言葉を守る』が、人間の方の指先です。
一方、神様の指先は、『わたしの父はその人を愛する…父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む』ということになります。
指先を両方から伸ばさなければ、お互いをじかに感じることは出来ないのです。
両方が対等の立場ではないことは確かですが、それぞれの立場で精一杯の働きがなければ、そのぬくもりは実感出来ないのです。
その両者の指先の接点こそ、信仰そのものであり,信仰活動であり、信仰生活だということができます。
もっと積極的に言えば、創造の段階で「接点だったものを、今、私たちは握手をし、組み手にまで発展させていかなければならない使命をいただいているのではないでしょうか。イエス様は、『一緒に住む』とおっしゃっているのですから…。
そうなるための条件として「イエス様を愛しています。そのしるしとしてみ言葉を守ります」という私たちの働きを求めておられるのです。
私たちが守らなければならない言葉とは、一体何なのでしょう?分かっているようでなかなか分からない御言葉、すぐ理解できるようで、なかなか核心がつかめない御言葉…。そうであっても、聖霊は私たち一人一人を導き、思い出させてくださる、悟らせてくださると、キリストは約束なさいます。
そうです。今、私たちが命を賭けて守らねばならないことを、聖霊はあらゆる手を使って悟らせてくださいます。
悩む司教様方を通して、素直な信徒を通して、貧しい人を通して、溢れる情報≠フ中に埋もれる小さな情報、ときのしるしを通して。さらには、か弱い司祭たちを通してでも…。
キリストは父と一緒であり、父の言葉しか語りません。しかし、私たちは彼の言葉を十分に理解できないまま、忘れてしまうことが多いのです。
そんな私たちに、すべてを教え導き、思い起こさせてくださるのは、キリストの名において父であり、神が常に遣わしてくださる聖霊です。
父から命を与えられている私も、父と同じ心で御言葉を語り、聖霊の働きにいつも耳を傾けることが出来るように、と祈ります。
私たちは弱い人間ですが、恐れることはありません。
キリストの言葉を守るなら、私たちは御父に愛され、聖霊は常に私たちと一緒に住んでくださるのですから…。
以上
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