ウィークリー・メッセージ 2016第25回
「あなたの罪は赦された」
番町教会担当司祭 松永
洋司
それは人口調査をした時も同じでした。主を頼みとせず、武力を頼みとしたゆえに、民に類を及ぼしたことに自責の念を覚え、主に赦しを乞い求めます。主は許されます。しかし、科の責を負わせ罪の償いを課します。
イエス様がファリサイ派の人に食事に招かれた際、罪深い女の人がやってきて、イエス様の足を涙でぬらし、香油を塗ります。招いた人はイエス様の対応を見つめます。ファリサイ派の人々はこのような女の人とは一線を引いていました。イエス様の対応が気になって仕方がなかったようです。
律法を基準にすれば女の人の取った態度は、否定されてしかるべきものだったことでしょう。しかし、イエス様はそうはなさいません。なすがままにさせます。そして招いた人に仰せられます。「この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は愛することも少ない。」
イエス様の基準は律法ではありません。御父です。御父の心で全てを見、判断し、実行します。それは姦通の女の人の際も同じでした。石を手にする人々にイエスはポツリともらします。「あなたたちの中で、罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」聞いた人たちは年長者から立ち去って行きました。
イエス様はこの女の人にも、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからもう罪を犯してはならない。」と仰せられました。イエス様はこのようにして、父である神様のことを伝えました。神さまの憐みと慈しみです。御父は犠牲ではなく、いつくしみを求められるお方だからです。
パウロも同じ体験をした一人です。ガブリエル門下生として厳しく律法を叩きこまれたパウロでした。そのため、イエス様の弟子たちを迫害してもいました。そんなパウロがイエス様に呼ばれます。そして異邦人の使徒としてつかわされます。パウロもイエス様を介して、御父のいつくしみを体験しました。
パウロはイエス様とのかかわりの深さを次のようにいいます。「生きているのはわたしではない。キリストがわたしのうちに生きているのである」というほどでした。わたしたちのイエス様との出会いの体験もこのようであれたらと思います。
「あなたの罪は赦された。」「あなたの信仰があなたを救った。安心していきなさい。」と仰せられるイエス様と私たちとの出会いを重ねることによって。
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