ウィークリー・メッセージ 201637

 

年間第25主日

 

 高松教区 事務局 助祭 西川 康廣  

 

 日の福音書・ルカ福音16章1〜13節の第1節に次の言葉が書かれています。

「イエスは、弟子たちにも次のように言われた」と。ではその直前の15章の話はどのような話だったでしょうか。それは、イエスが罪人を迎えて彼らと一緒に食事をいる姿を目撃したファリサイ派の人々が不平を言ったことに対して、イエスが譬えをもって語られた次の3つの譬え話です。
 イ)「見失った羊の譬」 ロ)「無くした銀貨の譬」 ハ)「放蕩息子の譬」


イ)「見失った羊」の話は、百匹の羊の内一匹を見失った羊の話で、この世の道理は分母(1/100=99)を大事にするが、神はむしろ分子(1/100=1)を大事にされる方であることを強調していると思われる。


ロ)「無くした銀貨」の話は、一万円は千円札が10枚揃って初めて一万円である。あらゆる生命は神の愛と英知によって造られたものであり、神が望まれないのに存在するはずがない(知恵11)と知恵文学は語っています。


ハ)「放蕩息子」の話は、この世の道理からすれば明らかに弟は自ら出た錆であり、お兄さんは実に可哀そうな人であり、彼が怒る心情もよく理解できる。


 しかし神の視点からすれば、自分本位に生きて来た弟が、ずっと自分の王座に居座り続けて来た彼が、何もかも無くした時点でやっとその王座から降り、お父さんに王座を明け渡した。この姿こそが大事だったとイエスは言われたのではないでしょうか。こうして弟はやっと神の前に深く頭を垂れ、真の従順の姿を示したのでした。それに反して兄は弟不在の期間、自分のできる範囲内で従順の道を歩んで来たが、思い通りにならないと父との交わりを拒否した。従順とは、ある範囲内での従順ではなく、自分のすべてを奉献し、自分の思いにではなく神の思いに自身を委ねていくことに意味があるのではないか。信仰による従順とは、神の徹底的な愛と赦し、憐れみと慈しみに支配された応答の道を指すのではないでしょうか。

以上の考察から本日の「不正な管理人」の譬えを黙想してみると、イエスはこの譬えをもって弟子たちに、信仰者としての在るべき姿を示されたのだと思う。つまり金持ちの不正な管理人が行った不正工作を褒めたのではなく、彼の不純な同機にも拘わらず、主人の前に頭を垂れて赦しを請いたい、主人の怒りに触れて恐怖心を抱いた彼は、とにかく何としても主人の怒りから救われたい一心で、全身全霊を尽くして努力した。この行動は確かに褒められたものではないが、その姿は放蕩息子が父の元に帰ろうとする動機と重なるものがある。


神へのアプローチにはいろいろある。大事なことは神との出会い、神に触れたいという思いである。その思いは徐々に清められ、浄化され、やっと神との真の深い交わりへと変容されていくものである。例え動機がどうであれ、父(神)の元に帰えりたい、神に触れたいという思いが芽生さえ起これば、神は必ずその人とともに住み、その人の中から不純物を取り除いき、よいものに変えてくださる。これが神の不変の『いつくしみの姿』ではないでしょうか。


第2朗読の聖パウロはテモテの手紙で次のように述べています。「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられる」と。更にルカ福音書は、「ごく小さなことに忠実なものは、大きなことにも忠実である。ごく小さなことに不忠実なものは、大きなことにも不忠実である」と。

今日の み言葉を下敷きに、神と自分自身との交わりの在り方を再考してみたいものです。

 

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