ウィークリー・メッセージ 2016第39回
「赦すこと、信じること、仕えること ―愛の共同体における父と子と聖霊の働きについて―」
宇和島教会担当司祭 田中
正史
イエスは弟子たちに言われた。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである。
あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。
一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」
「信仰」
使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき、主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
「奉仕」
あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。
命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。
あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。」
(年間第27主日福音朗読 ルカ福音書17章1〜10節)
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ルカ福音書17章1〜10章はイエスと弟子たちの間の一つづりの対話として描かれていて、初代キリスト教共同体作りに欠かすことができない規範をイエスが与えようとしていることがうかがえますが、その論理の流れを追っていくのは少し難しい。新共同訳聖書には「赦し、信仰、奉仕」というタイトルが付けられているので、それぞれの段落が「赦し」「信仰」「奉仕」というテーマで語られていることはすぐわかります。しかし、「赦す」「信じる」「仕える」という三つの行為がどのように関連しながら共同体作りにつながっているのかが見えにくいのです。
そこで、この部分の並行箇所であるマタイ福音書18章に描かれている天の国の共同体の規範と比較してみると、この三つの行為はルカ独自の共同体形成の規範、あるいはマタイの規範を発展させたものであることがわかります。
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共同体を形成するときに最も障害になることは、「つまずきを与える者」の存在です。マタイもルカも「つまずきは避けられない。だが、つまずきをもたらす者は不幸である」(マタイ18・7、ルカ17・1)と述べています。
「つまずき」を意味するギリシャ語のスカンダリオンσκανδαλιοvという言葉はもともと「獣などを捕らえる罠(わな)」(スカンダロンσκάνδαλαον)から来ていて、人を罠に陥れようとすることなので、「つまずかされた者」はその罠にはめられてしまったことになります。
しかし、日本語の「つまずき」という言葉は、たとえつまずいた原因が自分以外のものにあっても、自分が犯した失敗やあやまちという意味になるし、今や日本語としても使われている「スキャンダル」という言葉も同じギリシャ語スカンダリオンσκανδαλιοvから来るもので、信頼という罠にかけて相手を裏切り,その人をつまずかせる行為であるが、日本語では「不祥事(ふしょうじ)」とか「醜聞(しゅうぶん)」という意味で本人が自分で名声を汚してしまったというニュアンスに変わってしまっています。
それに対して、聖書が言う「つまずき」にはその根源にその人をつまずかせようとする意図や悪意があるのであって、「つまずいた人」はまんまと「はめられた」のであり、つまずいた原因はその人の中にはありません。
「つまずいた者」は失意の中で絶望するかもしれないし、あるいはつまずかせた者に対する復讐心を燃やすことになるかもしれません。いずれにしても愛と真実である神から遠ざかってしまうことで共同体との絆やつながりを失ってしまいます。イエスがこの「つまずき」がもっている共同体を破壊していく負の力の危険性をまず指摘している理由はここにあります。
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マタイとルカは「これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼(うす)を懸(か)けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである」(マタイ18・6、ルカ17・2)と叱責(しっせき)しています。
その後に続く「つまずかせた者」に対する対応は、マタイとルカでは対照的です。
マタイの方法は律法主義的であり、段階的な措置を取っています。すなわち、
@兄弟があなたに対して罪を犯したなら、二人だけのところで忠告すること。
Aもし聞き入れなければ、他に一人か二人一緒のところで忠告すること。
Bそれでも聞き入れなければ、教会に申し出ること。
C教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なすこと。
最後の措置は共同体からの破門を意味する非常に実際的な方法です。(たとえその後に赦しのテーマが描かれているとしても、このような法的な措置が先行しているところがマタイの特徴であると言えます。)
それに対してルカは、「あなたがたも気をつけなさい」と注意喚起したあとに、三つの対応の仕方について述べています。
@もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。
Aそして、悔い改めれば、赦してやりなさい。
B一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。
これはマタイが述べたような段階的な措置ではなく、一言で言って罪を犯した者に対する無償の愛と赦しとしか呼べないものです。
自分を罠に陥れた者を全面的に赦し、また何度も同じ罪を繰り返してもまた赦すということがどのようにして可能になるのでしょうか。恐らく同じ疑問をイエスの弟子たちも抱いたはずです。だからこそ、自分たちの弱さを自覚している使徒たちが次のところで、「『わたしどもの信仰を増してください』とイエスに言った」と書かれているのでしょう。
何度も同じ罪を繰り返す者を赦すという人間として不可能な行いをするために不可欠なものは「信仰」以外にはありません。赦しのテーマの後に深い信仰のテーマが現れている理由がここにあります。
自分には不可能なことであっても、そのような自分の不完全さを根底から支え、励まし、力を与えてくれる神の働きを信じ、すべてを神に委ねて意志的に行為するときに果たしてどのようなことが起きるのでしょうか。
イエスは「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」(ルカ17・6)と述べています。
「桑の木」というイメージを使ってルカは、共同体内部に根を下ろして人をつまずかせる破壊的な負の力を表しているのでしょう。イエスは「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」、他の兄弟をつまずかせて海に投げ込まれる方がましである兄弟さえも回心して聞き従うと言っています。
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「信じる」という行為と、次の「仕える」という行為はどのようにつながるのでしょうか。恐らく、イエスが「信仰」と「奉仕」の密接な関係を説いているのは、信仰が単なる熱狂・狂信(ファナティズム)の罠に墜ちないようにという戒めなのではないでしょうか。それゆえ、ルカは、そしてルカだけが「あなたがたも気をつけなさい」(17・3)とわざわざ釘(くぎ)を刺しているのです。
信仰をもっていると自負する人は、自分が正しいと思い込んでしまうとなかなか客観的にものを見ることができず、とかく独善的になりがちな傾向があります。イエスはその危険性も十分に認識しています。信仰には他者の弱さ、苦しみや痛みにも共感し、それに奉仕するという愛の純粋性と普遍性が伴わなければ決して本物とは言えません。
また、信仰は極めて内面的な行為で、外からはうかがい知ることができないように思われますが、その人が信仰をもっているかどうかはその人がどのように行動しているかによって自ずから明らかになっています(ヤコブ2・18参照)。
それは「仕える」ということです。何らかの見返りを期待して行うということではなく、他者本位に他者の善に対して奉仕する、何の見返りがなくても無償で仕えるということは、神への信仰がなくては行うことができません。
神は私たちがどんな人間であっても全面的に私たちを赦してくれます。神はイエスが弟子たちの足を洗って示したように僕(しもべ)のように私たちに仕えています。
神が神の子イエスを通して私たちにくださった赦しと奉仕をつなぐものは信仰です。なぜ私たちは赦さなければならないのか。なぜ私たちは仕えなければならないのか。その唯一の理由は神が私たちにくださった全面的な赦しと全き奉仕(神の子の十字架上の奉献)にあります。神は私たちの全ての罪を赦してくださると信じることができるとき、私たちの神に対する債務を返すことができる方法は、他者の罪を赦すこと、そして兄弟に仕えること以外にありません。
信仰がない人は人を赦すことができません。信仰がない人は人に仕えることができません。その逆もまた真です。真に他者の罪を赦すことができる人、心から相手に仕えることができる人には信仰があります。
ルカはつまずきが避けられない共同体の生活の中にあって愛の共同体を作るためには、赦しと信仰と奉仕が不可欠であるということをこれらの規範を通して示したかったのではないでしょうか。
そしてそれは、「赦す」という唯一の権限をもつおん父の力と、「信じる」という究極の意志をもつおん子の従順と、「仕える」という無償の愛のたまものである聖霊の働きによる三位一体的な営みによって活かされている共同体のすがたなのではないでしょうか。それは愛の共同体における父と子と聖霊の働きに私たちが与ることにほかならないのです。
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