ウィークリー・メッセージ 2016第42回
「年間第30主日」
中予地区協力担当担当司祭 稲毛
利之
「殺人」?「強盗」?「戦争」?違います。
自分に拠り頼み、自分の善意によって世界が変わると信じていること、自分の善意の積み重ねによって幸福がもたらされ、神に喜ばれると、神の国が実現されると疑わないこと―神の目にはこれが罪そのものなのです。それは新聞の社会面を賑わせている殺人鬼よりも、強姦魔よりも醜悪な決定的な重い罪なのです。犯罪を犯した彼らには回心の余地があります。しかし、自分に拠り頼み、自分の善意の積み重ねによって幸福がもたらされ、神に喜ばれると、自分の善意と努力の積み重ねによって神の国が実現されると疑わない者は、事実、偽善と自惚れの“”罪の暗黒“”の只中を歩んでいるので、彼らを救うことは難しいでしょう。何故なら、自ら嘘つきであり、神を偽り者とし、己を神とし、神の救いを自らが拒絶してしまっているからです。
「神の子を信じる人は、自分の内にこの証しがあり、神を信じない人は、神が御子についてなさった証しを信じていないため、神を偽り者にしてしまっています。 」ヨハネの手紙―5:10
「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」マルコ3:29
人類が屈してしまった最初の根源的な誘惑は何だったのでしょうか?神無しに賢くなろう、神無しに善い人間になろうという誘惑であり、それに屈してしまい、それを選ぶことこそが罪の本質です。人間−神=罪なのです。人を殺したり、騙したり、奪い取ることは罪の本質ではありません。神無しに善い人間になろうという罪の結果の目に見える“実り”なのです。人を殺したり、騙したりするから悪人であるのではないのです。神無しに善い人間になろうとする者が、人を殺し、騙し、奪っているのです。或いは、法には触れない形で、秘密裏に、善意と善行の裏で日々、殺し、騙し、奪っているのです。
我々の歴史の中で、どの様な人物が事実、戦争を引き起こしてきたのでしょう?善意に満ちた人物です。正義に自身を献げる善人たちです。
「自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。」ヨハネの手紙―1:8
今日のみことばでイエスは何を語っておられるのでしょう?実に悔い改める罪びとだけが義とされるのです。
「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます。 」ローマ4:5
それに対して、正しい者は救われない―なぜなら正しい者は実際いないからです。いると強弁するとしたら、自分がその一人と公言するなら、その者は神を偽り者と扱っているのです。
「正しい者はいない。一人もいない。 悟る者もなく、神を探し求める者もいない。善を行う者はいない。ただの一人もいない。」ローマ3:10−12
では、司祭や修道者や信者は、何の為に選ばれてここにいるのでしょうか?私たちが善いから選ばれているのではありません。日々、善意と善行の只中で殺し、騙し、奪っていることを知っている者だから選ばれているのです。それにも拘らず、神の憐れみによって生かされていることを証しするため、神の憐れみと神の業(神の国)を証しするために選ばれてここにいるのです。
では私たちにとって善行とは何でしょう?それも同じです。私たちの只中で私たちと共に働く神の業だけです。私たちの努力や行いの只中に現れる神の義・神の国そのものです。「善とは、他者(神)の現存です。」モーリス・ズンデル
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。」ガラテヤ2:20
最後に、イエスが弟子達におっしゃった次のみことばを思い起こしましょう。
「(善行の積み重ねによって神の友、お気に入りと見なされている)金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、 イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。」ルカ18:25-27
<カンバラ司祭の記事「神様と私たち人間との対話」に行く | 谷口助祭の記事「待降節」に行く> |