ウィークリー・メッセージ 201645

 

待降節第3主日

 

 高松教区事務局 助祭  西川 康廣  

 

 日イザヤ書は、繰り返し「喜び踊れ」と呼び掛けます。喜びの徴として、渇ききった砂漠の一面が美しい花で覆われる様をイメージします。

更に病者にたとえれば、弱った手や膝が強められ、目の見えない人の目が開き、聞こえない人の耳は開こえるようになり、口がきけなかった人は喋れるようになると表現します。

イスラエルの民は国を追われ、異邦の国で長年捕らわれの身として生活することを余儀なくされた、これがバビロニア捕囚でした。しかし異国の地において回心した民は、清められ、浄化されて乳と蜜の流れる地・約束の地へ帰還すること、神と民との親密な出会いと交わりの場所、エルサレムへ戻る知らせが預言者によって告げられます。「喜びなさい」、この言葉にはこれ以上の喜びはないことを意味しています。これが今日のテーマです。


 洗礼者ヨハネは、当時ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの姦淫の罪を告発した理由で投獄されました。ヨハネはその信仰によって神のために全身全霊をもって奉仕したが、その報いが投獄と言う全く自由を奪われた状態、孤独で不安な独房での毎日の生活でした。彼はいつまでこの闇の状態で生活しなければならないのかと自問自答していたことでしょう。確かにヨハネは、彼の後に来られたイエスを「見よ、神の子羊」として紹介しました。

しかし彼のメッセージには福音的な喜びを全く読み取ることは出来ません。彼のメッセージの行き着く場所は、罪を犯した者への神からの報いやローマの支配からの完全な解放でした。どれ一つ取っても乗り越えるには余りにもハードルが高い壁であり、そのために長い暗闇のトンネルを不安を抱えながら歩き続けるようなものでした。

しかしイエスの到来の意味は、暗闇の中に差し込む一条の光明(希望)の知らせでした。確かに洗礼者ヨハネの出現は、夜中の12時へ向かう闇の中ではあったが、夜中の12時に達すると同じ闇であったとしてもその意味は全く異なります。つまり光へ向かう「回心」の呼び掛けです。恐らくヨハネは、イエスにセンセーショナルな革命を期待したことでしょう。しかしイエスはヨハネの弟子たちに命じました。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい」と。


 貧しい馬小屋の中で一人の嬰児みどりごが生まれた。この幼子の中に神の秘められた神秘の力を誰が見たでしょうか。当時の社会から見捨てられた羊飼い、異邦人として蔑まれた東方の賢者たちでした。当時の王や高官、宗教指導者は自分たちの特権が奪われることを恐れ、その特権(王座)を神から遣わされた真の救い主に明け渡そうとしませんでした。

わたしたちはやがてお生まれになるイエスに対してどのような態度をとりますか。

 

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