ウィークリー・メッセージ 20175

 

律法について―「あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。」―

 

宇和島教会担当司祭    田中 正史

 

 音書を読んでいると、イエスと律法学者が論争し、両者が対立している場面がたびたび現れます。律法学者というのはそもそもどのような人たちなのでしょうか。


 律法学者は律法の解釈を専門とする人のことです。彼らが社会に台頭してくるきっかけになった決定的な出来事は、紀元前6世紀におけるバビロン捕囚でした。新バビロニア帝国の王ネブカドネザル2世は南のユダ王国に侵入し、エルサレムの神殿を破壊し、他の都市も征服しました。そして、生き残った人々の大半はバビロンに強制移住されられました。そのとき神殿という心の支えを失ったイスラエル人にとって、律法こそが心の拠りどころであり、生活の中心にならざるを得ませんでした。
 このような状況の中でやがてシナゴーグ(会堂)が神殿に代わって重要な役割を果たすようになり、ユダヤ教の信仰と教育の中心的場所となっていきました。それに伴ってそこで人々の教育にあたっていた律法学者が次第に社会的影響力を増していくことになりました。


 律法学者たちは自分たちこそが社会の中で一番「知恵ある者」だと自負していたので、イエスの答えの中に律法に反することがあれば訴えてやろうと待ち構えていました。たとえば、「よいサマリア人のたとえ」の冒頭では、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」、また、「わたしの隣人とはだれですか」と質問したことが語られています。これは律法、特に隣人の解釈に関して両者に大きな違いがあったことを示していると思われます。


 律法そのものが非常に重要なものであることはイエスもはっきりと認めていて「私が来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5・17)「天地が消え失せるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない」(同5・18)「これらの最も小さな掟を一つでも守り、教えるものは、天の国で大いなる者と呼ばれる(同5・19)と述べています。
 しかし、律法を大切にし、それを守るときに、どのようにそれを守るのか、どのような心でそれを実行していくのかについて考えることは大切です。律法は目に見えない天のおん父の愛といつくしみが目に見え、読むことができる文字として表現されているものだからです。


 ヨハネ福音書8章に律法学者とファリサイ派の人々が姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、「この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか?」とイエスを試して、訴える口実を得るために尋ねる場面があります。律法学者たちは、違反を犯した者を律法によってどのように裁くのか、という観点だけからイエスに質問しています。しかし、律法の役割はただ裁くことだけなのでしょうか。律法が神の意志、神の愛といつくしみの現れであるなら、違反者の過ちをあわれみ、愛をもって救うこともまた、人を裁くこと以上に大切な律法の役割なのです。


 律法を通して、そこに神の愛といつくしみが働くためには次の三つのこと、「秩序」「洞察」「知恵」が必要です。
 律法はすべての被造物をはるかに超えている最もいと高き神の思いに私たちの心を向けさせるという意味では、そこにははっきりとした「秩序」があります。
 次に、律法を通して善きわざを行うとき、もうこれ以上の最善の方法が考えられない場合には、そこに深い「洞察」があります。最後に、この善きわざにおいて、愛に満ちた真理が喜ばしく現存しているとき、そこに「知恵」があります。
 先ほどの律法学者たちの問いに対して、イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(ヨハネ8・7)と答え、だれ一人として女に石を投げることはありませんでした。それを見てイエスは女に「だれもあなたを罪に定めなかったのか。私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(同8・10〜11)という言葉を投げかけます。


 この一連の言葉の中には先ほどの「秩序」「洞察」「知恵」を通して神の愛といつくしみがこの女性に対して完璧に働いています。なぜなら、イエスは、すべての人々の心を天のおん父に向けさせることで一人ひとりの罪を自覚させ(秩序)、罪を犯した女性の罪は罪としてそのままに、彼女のいのちを救う方途を示し(洞察)、さらに「私もあなたを罪に定めない」というゆるしの言葉によって、もっとも弱き者にいつくしみを現す神の愛がそこに溢れている(知恵)からです。


 神の掟である律法を完全に守ることができる人などだれもいません。そうであるならば、私たちにできることはただ、自分が口にするすべての言葉に対して、ただ誠実であるほかはありません。できること、できたことに関しては「然り」。できないこと、できなかったことに関しては「否」。どちらにしても神は私たちの誠実さによってすべてを愛といつくしみのうちに受け入れてくださるのです。

 

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