ウィークリー・メッセージ 201710

 

「四旬節の犠牲―「痛み」と復活

  

聖マルチン病院・司祭  井原 彰一

 

 の水曜日から四旬節が始まります。私たちは灰を頭にかぶって自分が塵のようなとるに足りない弱い存在であり、罪を犯す傲慢な存在であることを見つめようとします。聖カタリナは「御身は在る者にして、我は無き者なり」といって自分の小ささと神の偉大さを観想したのでした。葬儀の後火葬場で骨上げの時が来て、先ほどまで顔や形があった故人が骨だけになって出てきたのを目の当たりにした時、私たちは人間の存在の小ささやはかなさを感ぜずにはおれません。何かをつかもうとしても、空振りに終わってしまうような空しい風がこころの中を通り過ぎてゆきます。


 先日、遠藤周作の作品「沈黙」が映画館で上映されていたので見にゆきました。アメリカ人の監督が何年も準備して自分の映画監督としての集大成として作成した映画です。テーマはキリシタン時代の迫害の中でキリスト者が体験した「踏み絵、拷問、ころび、殉教、神の沈黙」です。キリストの十字架を黙想しながら拷問―痛みについて考えてみたいと思います。

手と足に釘を打たれて十字架上に磔にされる時の痛みはどれ程のものか想像を絶するものがあります。キリシタン迫害の時の拷問でも十字架上の磔がありましたし、爪をはがされるとか、正座をさせられ膝の上に板を置きその上に大きな石をのせたままに放置されるなど、考えただけでも気絶してしまいそうな痛みであります。「死」の恐れよりも「痛み」の恐れの方が大きいと言ってもよいでしょう。

 ところで、医学的に見ると血糖値や血圧、肝機能、腎機能、腫瘍マーカー、握力、視力、聴力など数値で表すことのできる身体の状態がいろいろありますが、痛みは数値で表す方法がありません。ある痛みの範囲が数値で決まっていて、それ以上あるいはそれ以下の痛みは異常というように表すことができないのです。痛みの程度の違いは認められていますが、数値で表せません。線維筋痛症などではちょっと髪の毛を触っただけでも飛び上るほどの痛みに感じることがありますし、痛みに耐えかねて自殺する人もおります。身体表現性障害や疼痛性障害などでは、内科・外科・整形外科的には検査しても異常値や異常所見が出ないのに、耐え難い痛みを感じることがあります。なぜこのような「痛み」として感じられるのか分かっておりません。

また、ガンの末期に骨のガンなどでは激痛が発生して麻薬を使わないと耐えられないほどの「痛み」が生じます。「痛み」が出るので何とか鎮痛のための対策として麻薬の新薬の開発が進んできておりますが、なぜこれほどの「痛み」が生じるのかは分かっておりません。

 現在は日本ではキリシタン時代のような迫害はありません。しかしながら、多くの人たちが「痛み」によって苦しんでおります。自殺の原因は大まかに言うと三つあって、一つ目は人間関係の悪化からくる「痛み」、二つ目は病気の悪化からくる「痛み」、三つ目は経済的な悪化からくる「痛み」であります。これらの「痛み」を根底から癒してくれるのはキリストの「復活」であります。

主の復活の力によって「痛み」のあるところに癒しと希望と安らぎが生まれますように。アーメン。

井原彰一

 

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