ウィークリー・メッセージ 201711

 

「もう一つの復活

  

ブラザー  八木 信彦

 

 マスについて、ヨハネ福音書の中に、ラザロのもとへ行こうとしたイエスを、殺される危険があるとして引き留めようとした弟子たちに、トマスは「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言う場面があります。死も覚悟の上で熱心にイエスに従い抜こうと、このときトマスは思っていたのでしょうか。


 ところが、イエスが逮捕され、裁判の後、処刑される時、トマスをはじめ、どの弟子たちも、イエスに従い十字架の道を共に歩もうとする者は、誰一人いませんでした。師を見捨ててその場から逃げ去ったのです。
ユダに銀貨によって引き渡され、ペトロによって拒まれ、一緒に死ぬ覚悟のあったトマスからも見捨てられたイエス…。
彼ら師を裏切った弟子たちの心情はいかなるものだったでしょう。一生ぬぐえない過ち、自分の弱さを責める、後ろめたさでいっぱい、恥ずかしさ、師に合わせる顔がない、なによりも師の怒りの恐れ、等々、意気消沈、憔悴しきっていたに違いありません。


 トマスをはじめとする弟子たちにとって、復活したイエスを信じる以前に、自分を裏切った者たちのところに来てくれること自体信じられません。自分を引き渡し、拒み、見捨てたことで怒りに満ちているイエスは、自分たちの顔を見るのもイヤ、会いたくもないと思っているにちがいない、そう確信していたでしょう。錯覚していたでしょう。そんなイエスが「平和があるように」と言って皆の前に登場するのです。それを信じる方が酷です。なので、トマスが信じられない気持ちが少しわかる気がします。


 次の一文を見つけました。「真に『相手を信じる』ということは、『この人になら裏切られてもいい』と思える、ということ。相手のダメな部分や欠点を発見しながらも、『それでもわたしは、この人を信じることができる、というか仮に裏切られることがあったとしても(=期待ハズレの対応をされたとしても)、それでもいいと思える、ということ。』」だとしたら、信じるということも愛の行為にまちがいありません。


 と言うことは、信じるという行為は、本来私たちが神さまに向けてだけの行為だと思っていますが、実は神さまが私たちに向けての行為でもあるのかもしれません。それは正に私たちに向けての愛の行為です。
そして、もう一つの逆説・錯覚は、イエスの復活だけではなく、弟子たちの復活でもあったということです。


 過ちを犯してしまった弟子たちのところに訪れてくださったイエス。この過ちを帳消しにしてくださった、本当にゆるされた、と心から感じたことでしょう。先ほどまでの弟子たちの意気消沈、憔悴が吹っ飛び、ゆるしが可能である新しい生命、人生を大いなる喜びの内に歩み始められます。ゆるしを信じない者から信じる者へ、愛を信じない者から信じる者へ、イエスを信じない者から信じる者へ、の移行…弟子たちの復活です。


もう一つ付け加えることができるなら、私たちは、イエスを信じる者から、イエスから信じられるべき者(存在)であること、愛されるべき者(存在)であることへ、の新しい見方・生き方の始まり…私たちの復活です。

 

<井原司祭の記事「四旬節の犠牲―「痛み」と復活」に行く 岩ア司祭の記事「門であるキリスト ヨハネによる福音10章1節〜10節」に行く>

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