ウィークリー・メッセージ 2017第14回
「キリストの昇天 聖霊の時代の夜明け」
東讃ブロック協力司祭
村上 康助
一つは「キリストが神によって上げられて父の右に座られた」(マルコ16.19)という記述です。
マルコは昇天の有様については書いていません。復活によってイエスは父のもとにいます。それは人として身体をもって父の右にいるということです。もちろん、これは比喩で父に右も左もありません。父は場所に制限されないお方です。イエスは父の栄光と愛のうちにおられるということです。天という表現は、大空とその光、自由と広さが、神のいるところの素晴らしさを表すシンボルとして使われています。
もう一つは「イエスは祝福しながら弟子たちを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰った(ルカ24.50-52)、また「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」(使1.9-11)とあるように、キリストの昇天を見た者の視点から書かれています。そこでは昇天されたキリストの天上での地位については何も触れずに、むしろ地上の人々の目から消えてしまったことが強調されています。
キリストの昇天がどちらの形で描かれているにしても、それは「上げられた」ことを意味しています。使徒たちに最も近い時代の教会は、イエスの死者からの復活を「神によって高められ、神の右に上げられた」という言い方で表現しました。これはご昇天の出来事を理解する大事なポイントです。つまり昇天と復活はもともと同一の出来事の二つの表現なのです。
イエスは天に昇る前に、弟子たちを助ける聖霊の派遣を約束されました。受難の迫る頃、イエスが弟子たちに別れを示唆する話をされたとき、いつも彼らはおびえ悲しんでいました。しかしイエスとの決定的な別れになるご昇天の日には「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰った」とルカは記しています。いまや聖霊の時代が始まったのです。復活した主イエスは弟子たちに云いました。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」(使徒1.8)この言葉の通り、聖霊は弟子たちに臨んで、偉大な力を与えられたのでした。そして彼らは聖霊を受けて活躍し始めました。使徒言行録は明確にこの事実を語ります。
いま、私たちは聖霊の時代を生きています。ご昇天の祝日に当って、私たちも聖霊の導きに心を開き、愛の掟を生き、地域の人々にキリストの復活の証し人となれる恵みを求めましょう。
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