ウィークリー・メッセージ 201716

 

三位一体の主日

  

高松教区本部事務局長 助祭  西川 康廣

 

 日はとても難しいテーマです。日常の会話の中に「多重人格」と言う言葉がありますが、この言葉の響きにはあまりいい意味は伝わっていきません。この世は「有言実行」、口で語ることは行動で証明するのが常識だからです。

 ペルソナ(人格)が3つあり、尚且つその人格は完全に一体(一致)しているのが神の本質的な姿である。従って、三位一体の神は、この世の常識とは全く異なる性質であります。

聖書は旧約聖書と新約聖書が揃って、初めて聖書と言えます。旧約聖書の中によく出てくる言葉に「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と、神はご自身が誰であるかをいつも証しています。

これは契約を交わした相手である、人間側からのいかなる背信行為があろうとも、神の方から先祖に約束したことを破棄することは決してないと言う神の方からの強い意志の表れです。これが神の特徴であり、神の神秘です。人間はその弱さのゆえに度々罪を犯しますが、どんなに罪を犯したとしても、神の方から私たちに近づいて来てくださり、神の愛とゆるし、憐れみといつくしみを戴くことができる希望の道が開かれています。三位一体の神の完全な交わりの姿こそは、この世における人と人との関わりの在りがたの手本です。


 カトリック信者は、日に何回となく十字架のしるしをします。十字架を切る時の手の動きは、額から始まり胸へと縦の軸へ、そして次に左肩から右肩へと横の軸へ、十字のしるしをして完成します。

その時、「父と子と聖霊のみ名によって、アーメン。」と唱えます。「よって」の言葉の意味は、すべては神の支配によることを意味します。普段何気なく繰り返している動作ではありますが、意味を汲み取りながら更に深みに入ってみましょう。縦の軸は当然神とこの世との関係を指し、横の軸は世と世の中にあるもの全てとの関係を指していると思います。


 創世記第1章の天地創造の話に次のように書いています。「造られたすべてのものは良かった」と。つまり、神と人、人と人、人と自然は、全て神の計らいに沿って調和の内に置かれたということです。しかし人祖(アダムとエバ)は、神への従順より不従順の道を歩みました。その話が、例の禁断の実であるリンゴを取って食べた、あの有名な物語です。アダムとエバの背信行為により、彼らは失楽園を体験しなければなりませんでした。しかしそれは恒久的なことではなく、同時に神は彼らが戻って来れるように、備えの道も準備されました。人間は、脆さ、弱さ、汚れから、どうしても神の完全な愛の注入が必要です。それが十字架の縦と横の接点と言えるのではないでしょうか。この話に続くカインとアベル、ノアの箱舟、バベルの塔、この流れの中でアブラハムに続くイスラエルの全歴史は、すべて神のいつくしみの歴史であり、このことの証言と言えるでしょう。

証言には体験がつきものです。目撃或いは体験無くして、証言者になることはできません。確かに私たちは人を介してイエスと出合い、書籍を通して更に知識を深め、何とか信仰生活を歩んでいます。「何とか」と言う意味は、わたしの考えや行動や価値観が、常にキリストの支配に基づいているかどうかが問われます。聖書に「わたしは生きている神である」と言う言葉がよく出てきます。フィリポ・カイザリアでイエスは弟子たちに問いました。「あなたはわたしを誰だと言うか?」と。

これはイエスが同じことを言われています。人から聞いたことや学んだ事は、イエスについて知識的な議論の対象にはなっても、人の人生を変える決定にまでは至らない。神の差し迫るまでの愛を受け取りなさい、神の差し迫る愛とは何でしょうか。いうまでもなく独り子を与えるほど世を愛された、十字架上のイエスの死です。十字架のしるしをする度に、このことを深く味わってみたいものです。

今日の三位一体の祝日に当たり、父である神と子であるキリスト、神の愛の極みを先ず戴き、神の霊の住まいである魂を戴いているわたしたちは、もう一度信仰の原風景、原点、自分の信仰の立ち位置を噛み締めてみたいものです。

 

<諏訪司教の記事「聖霊降臨」に行く セルワ司祭の記事「神にふさわしくなるわたしたち」に行く>

ウィークリー・メッセージ目次に戻る

トップページに戻る