ウィークリー・メッセージ 2017第21回
「赦されることの大きな喜び
」
善通寺教会担当司祭
ホルヘ・ソーザ
信仰の表れ、あるいは信仰の答えは喜びであると、教皇さまはわたしたちに言われているのではないでしょうか。福音の喜びの書簡の前文を少し読みましょう。
「福音の喜びはイエスと出会うすべての人の心と「生」(人生・生活・生命)を満たします。イエスの救いの申し出を受け入れる人は罪、悲しみ、内的な空虚さ、孤独から解放されます。キリストと共に喜びは絶え間なく新たにされます。この使徒的勧告で私はすべてのキリスト信者が喜びに特徴づけられた福音宣教の新しい時代へと乗り出し、一方で来たるべき時代に教会が旅するための新しい道を目指すように励ましたいと思います。」
教皇様のことばによれば、キリストと出会う人は心と生を満たします。それは、キリストと出会うことの大切なポイントです。しかし今、キリストはどこにおいでしょうか、どこで出会うことができるでしょうか。福音の喜びの使徒的勧告を読み続けましょう
「イエスの救いの申し出を受け入れる人は罪、悲しみ、内的な空虚さ、孤独から 解放されます」
私も、今読んでいるあなたも、み言葉に照らされて、自分の罪が赦されたならば、大きな喜びを感じるはずです。弟子たちはキリストの赦しの証人となって宣教を始めました。
「また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。(ルカ福音書24:47-48)
これは宣教の中心ではないでしょうか。
放蕩息子の物語を引用してみます。この物語には放蕩息子が父から離れて、自己の幸せと喜びを求めたけれど、結局何も見つけませんでした。それどころか、自分の汚さだけを発見したのでした。その時、迷った子は父の家に戻ることを選びました。そして、本当の父の心を見つけました。父親の真の愛の奥深くまで知ることが出来ました。父親はあれほど至らなかった我が子を抱き、宴会を開いて、すべてを大きな喜びに変えてしまいました。
この物語にはもう一つ人物がいました。それはお兄さんです。残念なことに、お兄さんは喜びとは裏腹に、宴会も認めたくありませんでした。そんなお兄さんに父親は宴会の喜びに入るように呼びかけました。
皆さんもイエス・キリストとともにミサに入りましょう。その宴会に参加しましょう。祭壇の上のキリスト、世の罪を除く神の子羊は、いつもわたしたちに呼びかけ、待っておられます。
カトリック善通寺教会 ホルヘ・ソーザ
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