ウィークリー・メッセージ 2017第22回
「水の上を歩く」(マタイ14章22〜33節)
聖マルチン病院 司祭
井原 彰一
マタイは「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた」。・・・ペトロは『私に命令して、水の上を歩いてそちらに行かせて下さい』と答えた。・・・ペトロは船から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ」と記しています。
現代の私たちにとっては、人間が水の上を歩くなどということは絶対に有り得ない、不可能なことだと思われます。今も二千年まえも地球の重力の状況は変わっていないのです。このマタイの記した出来事をどのように受け止めたらよいのでしょうか。
イエスは神なのだから全知全能で万能である。従って重力の法則を超えて文字通り水の上を歩き、またペトロに水の上を歩かせることも可能であったと受け止める人もいるでしょう。しかし、これは事実ではなくマタイが他の人から聞いたことで、その人は湖の上に霞(かすみ)がかかっていたので遠くから見たら水の上を歩いていたように見えたが、実際は水際の陸地を歩いていたのであり、錯覚であったと言う人もいるでしょう。
ある人は、マタイはこの記事で肉眼の眼で現象としてどのような事が起こったのかを伝えようとしたのではなく、『水』という表現を用いてイエスの救いのメッセージの深い意味を伝えようとしたのであると考えるでしょう。当時『水』には『この世』という象徴的な意味がありました。雲は上空にあるのに対して、水は下を流れます。
「あなたたちは下からの者であり、私は上からの者である。あなたたちはこの世の者だが、私はこの世の者ではない」(ヨハネ8:23)
「私の国はこの世の者ではない」(ヨハネ18:36)
「あなた方はこの世にならわず、却って神のみ旨は何か、・・・考え方を改めて自分を変えなさい」(ロマ12:2)
これらのことをまとめると、イエスが水の上を歩いたというのは、イエスはこの世に属さず、この世の上にあり、この世に支配されていないことを意味するのです。ペトロの場合は、水の上を歩きましたが沈みかけてしまいました。イエスへの信仰によってこの世に属さない者になったけれども、疑いによってこの世に支配されそうになったことを意味するのです。
私たちも人生の旅路の中で強風にあおられる時、ペトロのように水の中に沈みかけてしまうことが少なくありませんが、「主よ、助けて下さい」とイエスに心から手を差し出しましょう。
井原彰一
<ホルヘ司祭の記事「赦されることの大きな喜び」に行く | 硫黄司祭の記事「ジョン万次郎 2017年8月20日」に行く> |