ウィークリー・メッセージ 201723

 

「ジョン万次郎  2017年8月20日

  

中村教会担当司祭  硫黄 隆二

 

 治維新前後に活躍した、ジョン万次郎を紹介します。


 万次郎は、1827年(文政10年)土佐清水中浜の両氏悦助の二男として生まれた。9歳の時父が死に、老役今津嘉平宅の下働きに出た。14歳の時、土佐市宇佐浦の漁船に乗り足摺岬沖の漁に出たが、嵐にあい10日間漂流し、無人島の鳥島に漂着し、143日間生きながらえた後、1841年(天保12年)米国捕鯨船ジョンハウランド号に救助され、ホイットフィールド船長の保護を受けた。ハワイに滞在中、洗礼を受けたのであろうか、ジョンマンと呼ばれるようになった。11月に漁を終えた船長ホイットフィールドに連れられて、1843年(天保14年)マサチューセッツ州ヘアヘブンに着いた。これより10年間ヘアヘブンで、初等教育、中等教育を受け、英語、数学、航海術、造船術等高等教育を受けた最初の日本人であった。

ジョンマンは日本に帰りたい一念から、当時ゴールドラッシュでわいていたカリフォルニア州サクラメントに行き、650ドルをかせぎ、1851年(嘉永4年)厳しい鎖国令下の沖縄に上陸し、那覇、薩摩、長崎、土佐藩で1年10ヶ月もの長い取り調べの後、やっと中浜の母のもとに帰ることが出来た。その後、ペリーが来航し通商条約を結ぶに及んで、造船、航海、捕鯨の技術指導に当たり、日米修好通商条約のための使節団の一員として通訳をつとめた。

1860年(万延元年)咸臨丸に乗り、教授兼通訳として渡米し、1869年(明治2年)現東京大学教授となった。翌1870年、普仏戦争視察の一員としてヨーロッパに行く。帰国後、軽い脳溢血をおこして倒れ、全快後は、静かな晩年を送った。1898年(明治31年)71歳で生涯を終えた。正五位が贈られた。
 ジョン万次郎祭は土佐清水市とヘアブンで日米合同で1年ごとに交代で行われている。万次郎の孫達はカトリックになっている。勝海舟、福沢諭吉、吉田松陰、河田小龍(土佐人)を通して坂本龍馬等維新の偉人達は万次郎から影響を受けている。

 去る7月18日、医者の日野原先生が亡くなった。彼はヘアブンのジョン万次郎が住んでいた家を買い取り、修理し、市に寄付をして現在に至っている。

 

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