ウィークリー・メッセージ 2017第27回
「愛の道を進もう」
東讃ブロック協力司祭
村上 康助
その真意は「神を愛するというなら、その人は隣人をも愛すべきだ」ということです。当時、律法の掟は六百を超えるほどありました。ファリザイ派の人々は熱心に掟を守っていたようです。
しかしその熱心さから、掟を破った人や守らない人々を裁いていました。またサマリヤ人や取税人、遊女たちを罪人と定め、律法を知らない群衆は呪われているとまで考えていたようです(ヨハネ 7:49)。
神を愛すると云いながら、隣人を常に裁いていたのです。これは何もファリザイ派の人々に限られたことではありません。私たち皆の陥りやすい罪なのです。
歴史を振り返ってみましょう。神を愛するという人たちが、如何に人々を迫害し、戦争を起こし、人々を殺害してきたことでしょう。他人事ではありません。私たちの毎日の生活でも同じことが云えます。神を愛すると云いながら、隣人を愛することができない。兄弟姉妹を愛することができないどころか、憎しみさえ持ってしまう、ということがあります。罪深い人間の現実です。神は、この痛ましい現実から人類を救う為に、人となってこの世に来られ、愛に生きる道を示されました。これが自分のように隣人を愛しなさいという愛の命令です。
愛に生きる生き方の出発点は何でしょう。それは自分が神から愛されていることを悟ることです。そこから自分自身への愛と他者への愛が生まれてきます。全ての人は神に愛されている存在です。これが唯一、そして全ての人に共通する、人間であるが故に愛し合う理由なのです。
神に愛されていることを知った人は、神を愛し、自分自身を愛し、そして隣人を愛して生きていけます。
隣人というとき身近な人という限定はありません。隣人を愛するということは、その瞬間、私の隣にいる人を愛することだと思います。日々出会う人の中には、気の合わない人もいます。しかし、その人も神によってこの世に造られた一人。私と同じように神に愛されています。神によって造られた神の子であるという共通点が、私達をつなぎとめています。
輝かしい日もあれば、暗闇に迷い込む日もある私たちの毎日。どんな境遇におかれても神を愛し続けること、神に愛されていることを忘れずに自分自身を愛すること、そして神に愛されている故に愛し合うこと。これが神に至る愛の道です。
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