ウィークリー・メッセージ 2018第13回
「年間第11主日」
協力司祭 硫黄 隆二
今日のマルコの福音書は2つのたとえ話です。
第1の話は「種まき」のたとえ話で、第2のたとえ話は「小さいからし種」のたとえ話です。宗教的な教えにたとえ話を用いるのは第一に宗教的なことを具体的に示すためであります。
そのためイエス様は舟に乗って、腰を下ろし、たとえをもって話されたのです。「聞きなさい」という言葉で始めました。それは彼らに救いの時が来たことを知らせるものでした。
農夫が畑を出て穀物の種をまいている。皆さん、この絵はよく見たでしょう。あの絵は聖書のこの場面を画いたものです。まかれた種は芽を出して成長する。種は人が知らないうちに芽を出して成長して行き、穂を出し、穂は豊かな実を結ぶ。このたとえ話でマルコは、種をまく人はことばをまくのである。
このことばは神のことばであり、福音である。これでイエス様がたとえの中で述べた種まく人はイエス様御自身であることがわかる。イエス様はガリラヤをめぐり、ことばの種をまくのです。
イエス様が「聞きなさい」という最初の呼びかけは、ガリレヤの湖の岸辺にいた聴衆に偉大な救いの時が来たことを告げるものです。種まく人イエス様は集まった人々の中にいる。
主のことばは人々の心の中に深く落ち、そこで豊かな「実」を結ぶべきである。このたとえは勇気と信頼を持つように、神のことばの種はどんな困難にもどんな抵抗や不成功にもかかわらずその実を結び、はるかに豊かな実を結ぶであろう。
第2のたとえ話は「からし種」です。神の国は「からし種のようなものである」。「からし種」は1ミリ〜2ミリ程度の大きさです。ある人が1粒のごく小さいからし種をとり、庭の土に埋めた。
すると、それが芽を出し、生い茂って2〜3メートルの木になり、その枝に鳥が巣を作れる程になった。これは相当極端な対照である。初めはやっと見えるほどのごく小さな種が終わりには大きな木となる。神の国が「まかれた」初めは、地味で目立たない。
しかし終わりには、すなわち、主が再臨される時には、目を見はるほどに大きなものになっていることを教えているのです。
<谷口助祭の記事「四国での浦上四番崩れの人々のこともっと知りたい!」に行く | ブラザー八木の記事「洗礼者聖ヨハネの誕生」に行く> |