ウィークリー・メッセージ 2018第14回
「洗礼者聖ヨハネの誕生」
ブラザー 八木 信彦
今回は、「洗礼者聖ヨハネの誕生」ですが、その中で読まれるルカ福音書には触れず、ましてや洗礼者聖ヨハネには直接関係のないお話しから書き始めていきたいと思います。
誰もがイエスに魅了された…。「誰もが」と書くと少し語弊があるかもしれません。これについても後で触れるとして、とにかくその人がイエスに出会ったその瞬間、ただならぬものをイエスに感じたのでした。
弟子たち…、彼らはそのイエスの呼びかけに直ぐに答え、網を捨てて従いました。今まで持っていたものや執着など、どうでもよくなり、後先考えず、すぐにイエスについて行ったので、よほど強烈な印象を受けたに違いありません。
サマリアの女性…、井戸の傍らに座っていたイエスを見た彼女は、今まで相手をしていた男性とは全く違う雰囲気を感じました。遠くから自分を見つめるその温かいまなざしに惹かれるように近寄っていきます。この出会いを境に彼女は変わり(変えられ)ました。
ザアカイ…、徴税人だということで肩身の狭い思いをしていた彼は、何かに救われたくて、イエスに出会いたいと思いますが、木に登ってまで一目見たい気持ちにさせられました。イエスに名前を呼ばれ一緒に食事をし、それがきっかけで回心します。
長血を患った女性…、どんな治療や良い医者にかかっても治ることがなく、半ばあきらめかけていたでしょう。そんなとき、「この人なら…」と思える何かをイエスに感じ、なりふり構わず必死に彼の衣に触れたのです。
ピラト…、ユダヤの指導者や祭司たちから断罪されているイエスを、はっきりした理由がある訳ではなく、処刑してはいけない、殺してはいけない、という直感的な気持ちにさせられたのではないでしょうか。
百人隊長…、イエスの処刑に際して付き添っていたのは、逃げていた弟子たちではなく彼でした。十字架刑の一部始終を目の当たりにした彼は、受難の中にあっても断罪人を赦そうとするイエスの姿に、「この人こそ神の子であった」と思わずつぶやいてしまいます。
そして…、お待たせしました。洗礼者聖ヨハネ…、ヨハネは多くの人々に悔い改めて神に立ち帰るようにと語り、洗礼を施していました。ヨハネは自分が人々に伝え、施している洗礼は、人々が救い主に出会うためであると知っていました。しかし、誰が救い主(キリスト)で、いつどこに現れるのかは知りませんでした。そんなある日、洗礼を受けるため、自分の方に向かって来られるイエスを見たヨハネは、「この人がキリストだ」と叫びました。一目見てキリストだと悟ったのです。イエスが赤ちゃんだった頃に出会った何人かが、直ぐにイエスが救い主だと悟ったのと同じでした。
イエスの出会いを通して、自分自身が、神さまからの贈り物、賜物、宝物、尊厳を持つ大切な存在だと思えるようになるようです。また、確かなものに委ね、自分の人生をかけ、誠実に歩んでみたくなる…、そんな心を引き出させる力をイエスはお持ちのようです。
出会う人々の方も、何か大切なものを求め、誠実に生きていこうと思わない限り、このイエスの不思議な魅力に気付かないかもしれません。その意味で、誰もがイエスに魅了されたわけではないのかもしれません。でも、信仰深いザカリヤとエリザベトのもとで育った洗礼者聖ヨハネです。彼は人々をを神さまに結びつけ、神の愛につなげ、イエスに出会わせることに人生をかけた人です。このヨハネが、出会っていなくても直ぐにイエスが救い主だと、悟らないはずがないと思うのです。
洗礼者聖ヨハネが、出会っていなくても直ぐにイエスだと気付いたように、私たちも日々の体験や出来事、出会いの中に、隠れておられるイエスを見つけられるように生きられたらと思います。そのためにも、イエスや神さまに対して誠実に生きていこうとする思いも大切なのかもしれません。
その隠れておられるイエスの出会いに遭遇したとき、彼の魅力に魅了され、ただならぬものをその出来事や出会いの中に感じるのです。
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