ウィークリー・メッセージ 2018第15回
「待降節第1主日」
三本松教会担当司祭 山 徹
私は、高校卒業後数年を東北地方で過ごしました。「おばんです」「まんず〜」「ぬぐい」…東北弁がとても身近に感じられました。仙台の各区や名取市の閖上等あちこち走り回りました。実に色んな方に出会いました。自然の風景も含め、沢山の思い出があります。
2011年3月11日午後、学校の職員室で仕事をしていました。ふとネットニュースを見て目を疑いました。「仙台で大地震、津波警報」ついこの間まで過ごしてきた懐かしい地域。色んな人の顔、風景が浮かびました。
多くの知人友人との連絡は、その日のうちにはとれませんでしたが、数日で何とか取ることが出来ました。1人の友達は家が丸ごと流されましたが、家族全員幸い無事でした。ただ、1人の神父さんの訃報が届きました。
その後、何度か震災ボランティアに行く機会を頂きました。仙台の街の中心部は無事でしたが、沿岸部に向かうにつれて凄惨な状況が広がっていました。見知った地の変わり果てた姿でした。ボランティア活動で、仮設訪問や集会所の“お茶っこ”(お茶を飲みながらお喋り)に何度も参加しましたが、直接被災した方々の喪失感は余りにも大きく…私は心底無力感を覚えました…。
今日のルカ書は、「その日」について繰り返し言及します。
夕べがあり、また朝がある…私たち1人ひとりの生活は、続いていくかに見えますが、実は永遠なる神様の御手の中での限られた時間なのです。続いていくかに見えた生活、関わりが…いつか不意に失われることがある、消えることがある…。
イエスはおっしゃいます、「身を起こして頭をあげなさい」と。苦悩や闇に飲み込まれぬように、天を仰ぎ、神様に委ねることを勧めておられるのです。実際には、「なぜこんなことが…」という嘆きの言葉を、被災地で何度も何度も聞きました。当然、お答えすることなどできません…。それでも、いやだからこそ、真の救いの訪れを待ち望む心もまた生じて参ります。
混沌とした現実の中にあっても、私たち1人ひとりが確かに救い主をお迎えすることが出来ますようにと…。
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