ウィークリー・メッセージ 2019第8回
「四旬節第1主日」
桜町教会担当司祭 松浦 信行
私の若いときの友人で熊本出身の人がいました。風邪をこじらせて40才になる前に亡くなってしまったのです。でも彼のお母さんとは今でも年賀状のやりとりをしています。
この彼は、九州男児なのですが、ボクトツで、人前でぺらぺら話す人間ではなかったのですが、あるとき共通の友人の結婚式の披露宴の司会を引き受けてしまいました。どこかの披露宴の司会という本からまさしく出てきたようなことばが、彼の口から発せられ、この司会をやり遂げたのです。
何冊か本を読んで準備したに違いありません。そして、司会のいつもの大変さ、お酒も食べ物ものどを通らない形で2時間を過ごしました。私なら絶対にそんなことは引き受けません。
後で、その友人に「なぜ司会なんか引き受けたの。よりにもよって君に」と訪ねたことがあります。するとその友人は「自分のためならやらないけど、あいつにお前しかいないんだと頼まれたら、断れないだろう」と答えたのです。
確かに自分のためならやらないことでも、大切な友人のためには一肌脱ぐことが私たちの生活には多くあることを、この年になって分かるのです。
私の弟なんかは、小さいときおもちゃ売り場で母が「おもちゃ買ってやろうか」といったのにもかかわらず、欲しそうな目でそのおもちゃを見つめていたにもかかわらず、きっぱりと「いらない」と泣き出しそうな顔で答えていたのを私は覚えています。
お菓子の小売店をしていた我が家では、母が売上金を集めて、手形が落ちるからと銀行に走っていたのをしっかりと子供達は覚えているからです。弟は、私以上に母が大好きでした。だから欲しいおもちゃを買ってもらうよりも、母に安心させたいとの思いがあったのだと思っています。
四旬節の第1主日のメッセージは、こういった体験がものをいうようです。申命記も民が神との間柄を語るときが、必ずその歴史を語ります。その語りによってどんなに民自身が神によって助けられたのかを語るわけです。そんな神なのです。
ローマ人への手紙もそのような神を実感し続けることによって、それが身につき心に深くたたずむお方が神なのだと信念になっていく有様が語られます。
ルカの福音もイエスが人生社会に向かって歩み始められようとするそのとき、イエスと出会う一人一人が一面性や効率性、能力としてだけ見られていくのではなく、その人全体として捉えていこうとするイエスの一との出会いが描き出されていきます。相手の世界を顧みずに、自分の世界だけで世界を見ることはその人を不幸にするとイエスは訴えているようです。
四旬節の初めに当たり、私たちの人生を神ご自身がしっかりと見ていてくださる。そんな実感が3つの聖書の中から浮かび上がっていきます。それは、そのように私たちと接してくださる神を見失わないヒントでもあります。
そんなメッセージが込められているこの四旬節、神が私たちを愛されている実感が深まっていきますようにと、この歩みを続けていきたいと思います。
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