ウィークリー・メッセージ 2019第11回
「復活されたイエス様は写真に写りますか?」
高松教区 司教 諏訪 榮治郎
主のご復活おめでとうございます。年ごとに巡りくる主の復活祭は、私たちの信仰を成長させてくださいます。
私たちはその当時どう答えてよいのか戸惑いました・・。昨年ある教会を訪問した折同じ質問をしてみました。信徒の方々の答えはしっかりと「写ります!」でした。わたくしは正直その答えを聴き大変うれしく思いました。
そもそも「主の復活」という出来事は歴史的にまた客観的に証明できるのか?・・あのカトリック作家の遠藤周作氏もかつて悩んだ問題でした。主の復活に関して四福音書の表現は少しずつ違っていますが、共通していることは「墓は空っぽだった」ということです。
主の復活現場を見た人はいないのです。客観的な証拠はないのです。しかしさらに共通していることは「主に出会った」という人が次から次へと出てきたことです。パウロは主が多くの人々に「現れた」という表現を使います(Tコリント15章1~10)。
ギリシャ語の「オフテー」という言葉ですが、この「オフテー」とは深い内面的な出会いの体験を表すことばです。人によって体験の状況が違うのですが、「オフテー」とは主に出会った確信を持っていることばです。
その出会いの恵みの体験をいただいた人々が集い、次第にいくつもの共同体(教会)が各地に生まれていったのは、まぎれもない歴史的な事実なのです。
Tコリント15章4節に「聖書に書いてある通り三日目に復活したこと・・」と共同訳聖書も訳しており、私たちも通常「主が復活された」と言いますが、しかしパウロの原文は少し違うのです。
この言葉は原文で「エゲーゲルタイ」と書かれています。これは直訳すてば「主は復活させられた」と、文法的に言えば「受身形」なのです。主語は「父なる神」なのです。つまり主の復活とはあくまで「父なる神」のご計画であり、御子イエスを復活させられたのです。
御子のへりくだりの愛はまさに父なる神ご自身のものであり、その愛は永遠の愛であることの証でした。私たちに御子との出会いをとおして父の愛を注ぎたい・・、御父が与えた「出会いの恵み」の計画なのです。
歴史をわたり、場所を超え 諸文化を通して、復活させられたイエスとの出会いによって、御父は新たな「創造の愛」を与え続けておられるのです。復活されたイエス様との出会いによって、新しい生命の息吹を注がれた教会は、復活のイエスの体となるのです。
教会は「聖体」なのです。主の復活を通して、この社会が「神の国」となることを御父は計画されたのです。イエス様の心に満たされていく中で、「写真を撮ります」。
そこに写っているのは誰でしょう?
<井原司祭の記事「主の受難」に行く |