ウィークリー・メッセージ 2020第6回
イエスとの出会い ―主の奉献の日にあたって―
八木 信彦 修道士
多くの人々がイエスに出会った瞬間、ただならぬものをイエスに感じていました。誰もがイエスに魅了されました。
例えば12歳の時のイエス。宗教指導者たちや学者たちは、この少年に一目置いていました。
青年期のイエス。洗礼者ヨハネは、「この人がキリストだ」と思わず叫びました。一目見てキリストだと悟ったからです。
弟子たちとの出会い。彼らはその呼びかけにすぐに応え、網を捨てて従いました。彼らは後先考えずイエスについて行ったので、よほど強烈な印象を受けたのでしょう。
ザアカイの回心。イエスが彼の家に泊まったその時から、奪うことから与えていく人生を歩み始めます。
サマリア女性との出会い。人目を避けて暮らしていた彼女は、井戸端の温かいまなざしのイエスに引き寄せられ、人々にイエスを堂々と告げ知らせる人に変わります。
十字架の下で佇む百人隊長。最後まで赦しを説くイエスの歩みを見届けた彼は、「本当に、この人は神の子だった」と心打たれてつぶやきました。
このように、初対面でイエスに魅了された人々を挙げればきりがありません。しかも、それらは少年の頃から始まっていたわけではありません。なんと生まれたときから、他の赤ちゃんとは違っていたのです。天使や聖霊に導かれて馬小屋に来た羊飼いや三人の博士たちは、イエスが待望していた救い主であると瞬時に確信するほど、この赤ちゃんは特別な輝きを放っていたのです。
今回の主人公であるシメオンとアンナも例外ではありませんでした。彼ら二人とも赤ちゃんであるイエスと出会い、その後の人生が大きく変わるほど、大きな喜びに包まれ、神さまを賛美し、感謝しました。
シメオンは、救い主イエス・キリストと出会うことで、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます」と言うことができるくらいの安らかさ、平安、満足を得たのです。
アンナも、若くして夫に先立たれ、84歳になるまで生きてきたその歩みの中で、常に神さまの慰め、救いを願い求め、待ち望んできました。同じように待ち望んでいる人々に、ようやく与えられた慰めを語り伝えました。
シメオンもアンナも、この赤ちゃんイエスに出会っただけで、なんとも言えない平安、満足、慰め、救いを得ることができ、恵みや喜びに満たされて、神さまを賛美し感謝しました。
このイエスに出会った感動というものは、言葉では言い尽くせない深いものがあります。先ほど触れたイエスに出会った人々…、その出会った感動による変化をまとめてみると、「何もかも捨ててイエスに従いたくなる」「今まで持っていたものや執着など、どうでもよくなる」「受けた平安、満足、慰め、救いを周りに分け与えたくなる」「確かなもの(イエス、神さま)に身を委ねて、自分の人生をかけてみたくなる」「人を神に結びつける⇒人を神の愛につなげる、気付かせる」「イエスのような人生を歩みたくなる」等々…でしょうか。
イエスの人生それぞれのステージで出会った人々を紹介しましたが、私の人生それぞれのステージで出会うイエス…というものもあるのではないでしょうか。言い換えると、洗礼の時に出会ったイエス、それ一回限りではないということです。私は受洗以降、色々な人生の場面でイエスに出会ってきました。これからのイエスとの出会いを思うとワクワクします。そして日々、イエスの出会いを更新していく大切さも感じます。そのイエスとの出会いの更新を通して、出会った感動をも更新していきたいものです。
今回の主人公、このシメオンとアンナのように…。
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