ウィークリー・メッセージ 2021年8月1日

儀式か霊性、どっち?

ロザイロ・ブラッドリー神父


 パンデミックのこの時期に、小教区の仕事に関わっている人は、私たちの教会の将来はどうなるのかと考え始めます。緊急事態宣言が出されるとミサが中止となり、また、解除されると、ミサが再開します。これがこれからのパターンになるのでしょうか?ウイルス以外は誰も知りません!

 “空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか”(マタイ6:26)。聖書のこれらの言葉は、イエスが命により多くの価値を与えたことをはっきりと教えています。私たちはこのパンデミックが続く中、頂いた命を大切にしながらこれからの精神性(スピリチュアリティ)と礼拝について考えるよう招かれていると思います。

 私たちは典礼中心の霊性に慣れているので教会に行き、ミサに与り、ご聖体を受けなければ救われないだろうと考えていると思います。しかし、現在のパンデミックの危機は、典礼中心の精神性を超えるように私たちを誘っています。

 霊性が芽生える場所は教会の建物だけではないことを認識する必要があります。私たちの家庭、職場、学校、自然などはどうでしょう。これらは精神性が根付く場所でもあります。教会の礼拝は良いのですが、私たちは自分の家族と違って礼拝の時にある意味で見知らぬ人と祈ったりします。 一方、一緒に祈るために集まる家族は、その親密さのために、より良い霊性を育むのを助けます。

 コロナウイルスパンデミックが、私たちに社会的距離を維持することを強制するにつれて、多くの人が自然環境に目を向けています。私たちは創造において神の美しさを賞賛します。例えば、山や木や川は私たちが神とつながることを可能にする強力な自然源であり、したがって私たちの精神性を高めます。私たちは典礼中心の精神性に慣れると、創造そのものが神の臨在を明らかにする神聖なものであることを忘れがちだと感じます。

 カトリック学校や教会が運営する幼稚園を例にとると、これらの場所では、心だけでなく、魂も養われていることに気付きます。魂がイエスや仏陀のような偉大な宗教指導者の教えによって養われるとき、それは一種の精神性の基礎を築くのを助けます。時々カトリック学校で教育を受けたキリスト者でない方の話を聞くと、彼らが特定の霊性を持っていることを感じます。今日、ミサや教会の礼拝に出席する多くのクリスチャンには、これが実際には見られないことを残念に思います。一つの理由は、私たちは彼らが持っている精神性を生かすために助けるよりも儀式をより重要視しているからです。

 イエスは制度化された霊性を擁護するためにこの世に来られませんでした。聖書に戻ってみたいと思います。イエスはサマリア人の女性に「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理を持って父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」と言われました。(ヨハネ4:23)

 みなさん、コロナウイルスが私たちに霊と真理を持ってどこでも崇拝する機会を与えてくれていると思いませんか?通常の教会の礼拝がないことでパンデミックを非難する代わりに、私たちは精神性(スピリチュアリティ)を実践する他の方法と手段を見つけましょう。

ウィークリー・メッセージ目次に戻る
トップページに戻る