ウィークリー・メッセージ 2022年1月23日(神のみことばの主日)
神のみことば
小山一助祭
今日は「神のみことばの主日」です。フランシスコ教皇さまは、2019年9月に自発教令「アペルイト・イッリス(彼らに開いた)」を出され、ラテン語訳聖書の翻訳者である聖ヒエロニモ(347頃-420)の帰天1600年を機会として、典礼暦の「年間第3主日」を「神のみことばの主日」として記念することを定められました。「私たちの現実の生活の場に神さまのみ言葉を迎えよう、福音書から始め、毎日聖書を読もう。」と、あらためて呼びかけられておられます。
真面目なキリスト者であれば誰も異論はないでしょうが、現実の生活の中では、ふと気付くと聖書は本棚に置いたままで、この前手に取ったのが何時だったか分からないようなこともしばしばです。ことに、社会的に、もしくは家族として、責任の大きい時期には、そのような事態になりがちです。神さまは、そういう私たちの姿を十分に知りながら、その私たちを「生き生きとした命」に生きることができるよう御独り子イエスをあがないとして世に差し出されました。そして更に、その私たちが、日々新たに神とともに生きることができるよう7日ごとに安息日を用意して下さり、幸い、今の日本では多くの人が日曜日を休日として楽しめます(今日の第一朗読でのネヘミアの言葉のとおりです;主の日には良い肉を食べ甘い飲み物を飲み、持たない人とも分かち合い、主の聖なる日を喜び祝いなさい)。
主日の御ミサを大事にしましょう。教皇さまの呼びかけに応えられる方は良いでしょうが、社会の中で積極的に責任を果たしている信徒の多くにとっては、聖書に親しみ神のみ言葉を定期的で確実に味わえるのは、実際には「主日のミサ」の時だけでないでしょうか。それだけに、ミサの中で朗読される聖書の言葉はもちろん、典礼の中で交わされる司祭と信徒のことばを、「神からの」、そして「神への」言葉として大切にすることが大事です。ミサは祭儀ですが、単なる”祭儀儀礼”という以上のものです。「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である(ネヘミア8・10)」というネヘミアの言葉は、ミサを大事にすればするほど、信者生活の中で実感される言葉です。誤解を恐れずに言えば、「どうせ1時間教会の中で座っているのだから、その時間はできるだけ有効に使い、典礼に集中し精いっぱい神さまとの仲を深める」。そして、教会を出たら今度は、精いっぱい自分の用務に集中するというのでも構わないと私には思えます。
今日の福音は、イエスの宣教の始まりのエピソードが語られます。ルカはイエスさまの直接の弟子でないだけに、イエスについて確実なことを調べ順序正しく書いたとわざわざ書き記しています。ルカによると、イザヤ書を朗読し終わった時にイエスさまは「この聖書の言葉は、あなた方が耳にした今日、実現した。」と言われました。イエスさまの言葉は今の私たちへの言葉でもあります。イエスさまとともにイザヤ書を聞いた人に告げられたのと同じように、イエスさまは、今、私たちに告げられています;「主の恵みの年が、今、訪れている」と。
信仰の世界は、体験した人には素直に分かり、喜べますが、理屈を考え出すと難しく体験するチャンスを逃すことも良くあります。「あなたの信仰があなたを救った」と繰り返し教えて下さっている通り、イエスさまの言葉を信じる人には、今日のイエスさまの言葉によって自分が変えられ、自分を取り巻く世界が変えられ、世界全体と宇宙が変えられて行くことを体験でき、それだけでなく、その変容のプロセスに自分もかけがえのない人間として参加してゆく恵みに与ることになります。主の恵みの年の訪れです。
イエスさまが私に語って下さることばを良く聴き、それが良く分からない時にもマリア様のように心に思い巡らして忘れないようにするとき、思わぬ体験に導かれ目を開かせて頂くことも稀なことではありません。信仰生活の面白いところです。
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