ウィークリー・メッセージ 2022年2月13日

「さいわい」と「さいがい」(「幸い」と「災害」)について

-ルカ福音書6:17,20-26-

ブラザー八木信彦


 一字違うだけでおおよそ真逆の意味になってしまう「幸い」と「災害」…。災害は、地震、台風などの自然現象や事故、火事、伝染病などによって受ける思わぬわざわいや被害ということから、困難、貧困、悲哀、葛藤など、不幸や元凶になるものでしょう。このように「幸い」と「災害」が正反対のものでありながら、密接な関係にあることを分かち合っていきたいと思います。

 私たちが言う「幸い」とは、どんなものでしょうか。初詣に神社に行って祈願するもの、以下の四文字熟語にそれがよく表れています。家内安全・無病息災・身体健康・事業安全・交通安全・商売繁盛・学業成就・受験必勝・出産安産・心願成就、等々。要するに平穏、健康でスムーズでうまくいき、お金やモノがそれなりにあるいはたくさんあって、願いが叶うこと、これらが「幸い」の条件でしょう。しかしそれらは、周りの環境状況や自分自身の状態によって大いに左右されるもので、一時的、表面的、浅い「幸い」でもあると感じます。

 神さまイエス様が言う「幸い」とは、どういうものでしょうか。人間にとって良くないこと、いわゆる上記の災害のようなもの、貧しさ、悲しみ苦しみ、困難が「幸い」なるかなと、今回読まれた福音書(ルカ6:17,20-26)に書かれています。価値観が私たちとは真逆です。

 ある牧師さんは「幸せを求めるのではなく、まず神を求めなさい。なぜなら、幸せは神の中にあるからです」と言いました。また旧約聖書のエレミヤ書17章7節にはこうあります。「おおよそ主にたより、主を頼みとする人は幸いである」。それは「神さまに全てを委ねられる人は幸い」ということでしょうか。

 「委ねる」と言うとき、「頼る」「任せる」と言う意味だけでなく、「信頼する」「あがめる」「つながる」「思いを馳せる」「(命を)賭ける」「自然の営みの中に身を置く」「自分よりも神様の思いを選ぶ」「自分の力ではなく神の恵みで生きる」と言う意味合いも含まれている気がします。

 神さまに委ねる(つながる、思いを馳せる)ことと、人間にとって不幸なことつまり悲しみ苦しみ困難が、どう関係するでしょうか。「苦しいときの神頼み」とよく聞きます。それは「苦しくて自分の力ではどうにもならなくなると、普段は信仰心を持たない人が、苦しいとき、病気や災難で困ったときだけ、神仏に頼り祈って、何とか救いや助けを求めようとする」ことです。

 そうであるなら、悲しみ苦しみ困難は、神さまとつながる、神さまに思いを馳せる、それまで神さまの方を向いていなかった向きを神さまの方へ向き変える、回心、悔い改めのきっかけになるもの…ではないでしょうか。また、自分の力で何でもできると錯覚していた傲慢から、神さまにつながり頼って生きる謙虚さへのきっかけにもなるのです。

 そう思えるとき、今回の福音の箇所で、貧しさ飢え渇き悲しみの時、神さまにつながること頼ることを思い起こす、それこそが幸いであることの意味が見えてきます。そうすると、これらの悲しみ苦しみ困難さえも、神さまを思い起こしつながるためのきっかけ、お恵み、賜物、贈り物に変えられていきます。 ※「苦難は神が働かれる舞台」;中国伝道師ハドソンテーラー。

 そして、神さまに思いを馳せつながることで、自分自身に弱さや欠点があっても、神さまから愛されているかけがえのない存在であることに気付いていきます。そう思えることこそが真の「幸い」なのかもしれません。その「幸い」は、周りの環境状況や自分自身の状態、時代の流れによって左右されず、永遠の揺るぎない深い真の「幸い」、大きな希望につながっていくものです。

 コロナ禍の今、人々はSNSで遠くの人、会えない人とつながろうとしています。それも大事なことです。が、一番身近な神さまと祈りや感謝でつながる時でもある…ことを忘れないようにしたいです。

 「災害」は真の「幸い」に至るための原点なのですから…。

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