ウィークリー・メッセージ 2022年3月20日

待っておられる神様

髙山徹神父


 何か事件等を聞いた時、知らず知らずのうちに、誰かの誤りに目を向け自分は大丈夫なのだと胸をなでおろしているかもしれません。私は大丈夫、と思う…いいえ、その実、私自身も省みる必要があるのです。

 世界的なコロナ禍が続き、2年の月日が流れています。日々、感染数やワクチン接種率の報道が続きます。報道と共に、「近所の○○さんが罹ったらしい」「◇◇さんのお子さんの学校が休校になったらしい」等身近な所からの情報も耳に入ります。コロナに感染することが、決して対岸の火事ではなく、自分の身にも迫っていることをひしひしと感じます。マスク着用、うがい、手洗い、手指消毒、ソーシャルディスタンス、人混みを避ける…出来る限りのことをして、感染を防ぐ努力をします。自分の身を守ることが、同時に、周りの人も守ることにもなります。しかしながら、自分も周囲の人も、完全に感染を防ぐのは極めて困難です。「今の所は、今日は…私は、感染してない、大丈夫…」と安心します。残念ながら感染してしまうと、狼狽するかもしれません…。感染せずとも、″濃厚接触者″に認定される事態はかなりの確率で起こります。注意しても、それに該当することはありうるわけです。該当しないうちは安心してますが…

 四旬節第3主日の福音の中で、シロアムの塔が倒れて死んだ者達を取り上げながら、イエス様は「あの十八人は、エルサレムに住んでいたどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。」といみじくもおっしゃいます。「あなたがたも悔い改めなければ…」とされるのです。そして、実らないいちじくの木を切り倒してしまうと言う厳しいたとえを語られます。神様は、私たち1人ひとりに語り掛け、真の回心と気付きを待っておられます。全ての人に等しく語り掛けるのです、愛の掟を、愛の恵みを…

 全ての人に語り掛け、待っておられるのが神様の姿勢と言えるかもしれません。私自身も、受けた恵みに気づき頂いた愛を想い起し、お応えすることが出来ますように。

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