ウィークリー・メッセージ 2022年8月28日
謙遜
川上栄治神父
この日の福音朗読でイエスは、上席を選ばず末席を選ぶようにと人々に勧めます。それは最初に上席を選んで後から身分の高い人が来てから末席に座るよりも、最初に末席に座っておいて後で周りから上席に座る方が同席の人みんなの前で面目を施すとイエスは言います。この言葉はわたしたち日本人にとって、昔から美徳とされてきたことであり、理解しやすいでしょう。けれども、この謙遜をわたしたちは本当に理解していると言えるでしょうか?
教会の信者-特にご年配の信者-の中には「わたしには大したことができません」と言われる方がおられます。そのように言われるのは、ご年配の方であれば、年齢を重ねたことによる体力の衰えによって教会に行くのが難しいからでしょう。一方、働き盛りの人は、教会に行くのが難しい方もいるでしょう。ただ、中には周りからの反応を恐れて「わたしには大したことができない」と言って、何かを断られる方もいます。ただ、わたしはそういう人に積極的に何かをお願いすることはしません。それは日本社会の構造がそうなっているからです。
話は変わりますが、わたしは修道会の経営している学校で週一回宗教の授業をします。その時、ある生徒に何かを質問すると周りの生徒の顔色を伺う生徒がかなりいます。最近の教育は「個性を尊重する」という方向になっていると言いますが、周りの人と同じことをしていると安全という思いは、時代が変わっても日本社会には根強く残っています。問題なのは、そのような思いを謙遜であり良いことだと思うことです。それはイエスが教える謙遜とは違うものです。
イエスが教える謙遜の核心は今日の福音朗読の終わりの方に語られています。ここでイエスが勧めているのは、宴会を催すときは友人や兄弟などお返しをする人を招かず、貧しい人や体の不自由な人などお返しのできない人を招くことです。ここで、イエスの言わんとするのは、見返りを求めずに他人のために奉仕することです。これが「無償の愛」、すなわち聖書で言われるアガペーです。そして、この無償の愛こそが謙遜に生きるために必要なものであり、キリスト信者の土台になるものです。
無償の愛は容易に実行できるものではありません。ただ、キリスト信者として生きるのはイエスの生き方に倣うのと同じことです。なぜなら、イエスは神として遠くに離れた方におられるのではなく、人間としてこの世界に来られた方です。そのイエスの謙遜の究極は十字架の死にあります。わたしたちは絶えずイエスの姿を見ながら、イエスに倣って生きるように努めましょう。
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