ウィークリー・メッセージ 2023年3月5日
四旬節第2主日
申繁時神父
今日の御言葉(特に福音書)の箇所は、主日には必ず読まれる大切な箇所であり、福音(良き知らせ)ですから、そこには私たちの生き方や生活状態に助言と支えが隠されています。
最初の弟子たちは、イエス様に出会い共に旅を続けます。その中でも特別な奇跡の出来事を受けます。イエス様が、目の前で光り輝き別人のように神々しく変わるのです。つまり「変容」するのです。ある霊的に深い神父様に聞いたことがあります。「変容」とは「復活されたイエス様の姿」と。
つまり弟子たちは、受難後の復活されたイエス様の姿を、その目で先に見たことになります(その後イエス様を裏切ることになりますが!?)。ではこの出来事は何を意味しているのでしょうか?
私たちがあることに人生をかけて生きていこうと決心して突き進むことは、本当に奇跡的出会いや出来事がないと不可能かもしれません。結果的に振り返ると良い結果になれたと実感することはあるのかもしれませんが、先に決心をたてて生涯貫くことは何事においても現実的には難しいことではないでしょうか(むしろ決心しないことを決心したほうが以外に楽に進める気もします)。
教会の秘跡には「洗礼」という第一の秘跡があります。幼児洗礼(親御様の想い)でも成人洗礼でも、その決心は一大決心だといえるでしょう。まず決心したことは大きな恵みです。だからこそ、神様がその方を召し出し十字架の道のりを乗り越える力で支えてくださり、本当の幸せまで導いてくださいます。ここにキリスト者としての真髄があるのです。
・・ちなみに、私は少しちがった決心でした。今だから告白しますが、「洗礼」は自分で臨んだのもではありませんでした。「幼児洗礼だったから?」でもありません。りっぱに成人洗礼でした。
ただそのきっかけは、当時所属していた教会の神父様に無理やり「あなたは洗礼を受けなさい!」と強制されました。顔を見るたびに執拗に「洗礼を受けなさい!」と言われ続けましたので、神父様の顔に免じて洗礼をうけてあげようということです。つまり傲慢や高飛車な思いでなく純粋に神父様のその信仰心と熱意に負けての受洗でした(紆余曲折がありますので誤解なきでお願いします)。
ここまで私のことを想ってくれてのことなので、神父様に応えてあげたいという本心での決心でした(余談ですがその後司祭になりたいとその神父様に相談して喜んでくれると思ったら絶対に反対と!と言われて困惑しました。ここにも意味がありましたので誤解なきでお願いします)。
すこし話がまとまりませんで失礼します・・
今日の最初の弟子たちも、神様は計画を一人ひとり違う計画にして持たせて、召し出しの使命を果たさせることだということです。そして何よりも「『その時』が来るまで、黙って神様の元に身を置くことからすべてが始まる」ということです。
どうか、神様の『その時』を待ちながら、あらたな神様の計画に『決心』をもって歩んでまいりましょう。
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