ウィークリー・メッセージ 2023年7月10日

年間第15主日

三本松教会・霊性センター 西川康廣助祭


 今年の教会典礼暦は『A年』で、主日のミサでは主にマタイ福音書が読まれている。今日はマタイ福音書13章だが、マタイ福音書1~13章までの流れを確かめてみたいと思います。1~2章「イエス・キリストの誕生」、3章「洗礼者ヨハネのヨルダン川での洗礼」、4章「イエス・キリストの福音宣教開始」、5~7章「山上の説教」、そして9章で次のように結んでいる。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒された」(マタイ9.30)と。イエスの後を追って大勢の群衆・宗教指導者・病人・罪人・徴税人・異邦人が着いて来た。イエスの福音宣教は主に会堂で行われたが、その理由は、ユダヤ人は既に唯一の神の存在を信じ、神からの救いを得るために律法を遵守していたからである。しかし、既得権を持っていた宗教指導者にとってイエスは危険人物であり、また大勢の群衆はイエスにご利益しか求めてなかった。当時の社会で小さい立場に置かれていた人々(異邦人・病人・徴税人・罪人)は、自分の力ではどうすることもできない限界を認め、純粋の心でイエスに救いを求めた。10章において、イエスは弟子たちを選定し、弟子たちとともなる生活をしながら、いかに多くの人々が救いを求めているかを見聞させ、養成し、派遣した。

 イエスは会堂から締め出されても、決して諦めることなく、野原、山、湖、家庭で福音宣教した。その場で何かの動きがあれば、聴衆に目を向けさせ、そこから譬えを用いて真理と出合わせる、これがイエスの福音宣教の在り方である。イエスの福音宣教は、主にガリラヤ湖畔北部の町(コラジン・ベトサイダ・カファルナム)だった。しかし、これらの町のユダヤ人たちは、真理と出合いながらも背を向けた。逆に異邦人(ティルスやシドン)の人々は、荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めた。『種まきの譬え』において、自然の力に任せた種まきの話は、当時の人々が日常的に目にしていた光景である。イエスは譬えの話から核心へと向かう。話の核心は、無駄になると分かっていても、全部が無駄になるわけではなく、種を蒔けば必ず実を結ぶと言う確信『信仰』が必要だということ。弟子たちがイエスに「何故、人々には譬えを用いて話すのか」と質問すると、イエスは、「あなた方は天の国の秘密を悟ることが許されているが、彼らには許されてない」と答えた。つまり、信じようとする心を持たない限り、先へは進めないし、将来に希望を持つこともできないと言うことである。種を蒔く人は、み言葉そのものであるキリストを指し、地はみ言葉の種が蒔かれた心を表わす。聖地イスラエルの地層は、花崗岩の上を石灰岩が覆い、その上に土が堆積してできた構造になっている。ある種は道端にとは、畑は純粋に畑地としてだけではなく畑の中を人も往来する、これが道端である。石地とは、土の層にはバラツキがあり下に石灰岩があると言うこと。茨の中とは、堆積した土には雑草の種も混入していること。良い土地とは、土の層が厚く雑草の種も混入していない状態。み言葉の種が蒔かれる、それぞれの心の状態(畑)を見つめ直してみたいものですね。

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